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最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

なんで勉強できる子を褒めちゃダメなんだよ?!

 この前の期末テストで、中学1年生で俺の問題に100点を取った生徒が何人かいた。テスト返しの時間に俺が、
「100点を取ったのはこのクラスの○○君と△△さんです。」
と言ったところ、そのクラスがどよめいた。だがそれが100点を取った人を褒めたたえる、いつものどよめきの色ではなかったので、俺はいぶかしく思い、ちょっと聞いてみると…。
 驚いたことに、そのどよめきは、俺が100点取った生徒の名前を言っちゃった、ということに対する驚きのどよめきだったのだ。え?え?言っちゃダメだったの??いいんじゃないの、いいことなんだから?違うのか??だって、今までも俺、けっこう言ってたよ??

 みんな、今まで疑問に思わなかったか?
 実は、これこそが公立小中学校のかなり重大な構造上の問題だ、と俺は思っている。すなわち、公立小中学校にはどういうわけか、そしていつの頃からか、
「勉強ができる子を褒めてはいけない」という不文律があるのだ。

習字の上手な子は「書き初め展」や「硬筆展」。
ピアノの上手な子は「合唱祭の伴奏者」。
文章を書くのが上手な子は「読書感想文コンクール」や「作文コンクール」。
絵を描くのが上手な子は「郷土を描く美術展」や「児童生徒美術展」。
アイディア豊富な子や手先の器用な子は「発明創意工夫展」。
駆けっこの速い子は「通信陸上大会」。
長距離走に強い子は「駅伝大会」。
球技が得意な子は、各種の部活の大会。

 子供たちを誉める場は他にもいろいろあるにもかかわらず、そして、文科省を頂点としてあれだけ子供を褒めろ子供を褒めろ、と鉦太鼓をたたきまくって騒いでいるにもかかわらず、一番肝心の「勉強のできる子」を誉めたたえるシステムがないのは一体全体なぜなのか?もちろん場面場面ではやってますよ。授業中に手を上げて答えた子なんかを褒めたりして。しかし、それはかなりの場合、できない子の「できる」という夢を覚まさないために用いられる手段だったりする。あんまり勉強のできない子を指名して答えさせ、わかる喜びを味わわせるなんてけっこうありそうだし、まあ、それはそれでもいいのだが…。

かつてあった、定期考査の合計点が高い順に名前と順位と得点を書いて廊下に張り出すとか、成績優秀者を卒業式の時に「右総代」として記念品授与をさせるとか、一番勉強のできるやつを「級長(学級委員長)」として担任が指名するとか、そういう
公的なシステムとして勉強できるやつを褒めることはなぜ消えてしまったのだろうか。
 まあ思うに、寺脇の「すべての子供たちに100点を!」といったイカレた発言を象徴として、それまでも行われてきた行きすぎた悪平等主義の結果なのだろうが、できる子をできる、と言っちゃいけない、認めちゃいけない、というのはやはり困った問題である。だって、せっかくできても褒めてもらえないんじゃ、総体的にやる気だって失せるじゃん。できない奴ができるようになるのを待っていたのでは、あたらよくわかる奴が嫌気がさす、というのは俺ごときが今さら言うまでもなくすでに世の中で騒がれているが、それだけでなく、よくできる奴同士の競争心をも阻害し、頂点を低くしてしまうではないか。

 上にあげた習字をはじめとする様々な「特技」というか「才能」はできる奴にはできるし、俺のように何をやっても全然ダメな奴もたくさん?いる。それと同じように、国語や数学などの教科も、できるかどうかは生まれついての才能も関わっている(というのはおおかたの教員は体で感じているであろう)。できる奴はできるし、ダメな奴はダメだ。だったら、できる奴を褒めてやって、もっとできるように仕向け、できない奴は早めにあきらめさせて(というか限界を感じてもらって)自分を生かす道を探そうと思ってもらうのも、将来の進路選択のために有意義なことではないのか。「やればできる」という幻想に縛られ、いつまでもゴールの見えない勉強に不必要に身をやつす人間があまりにも多すぎないか?それはモラトリアムをいたずらに長期化させて社会の損失になってるような気もするし、大人として成長し損ねた人間を多く輩出させている遠因になってるような気もする。

 音楽の世界ではその辺はっきりしている。いらない奴はいらない、ダメな奴はダメ、と割り切っていて、実際ダメな奴は「やめろ」とはっきり言われるし、音大の先生なんかもレッスンの扱いでは明確に差別をなさる(できる奴ほどメチャメチャにしごかれるから、一目瞭然)。しかしそれは冷たいからなのではなく、「無駄なことにいつまでも時間と金をつぎ込まずに早く違う道を探せ」という親心のメッセージなのだ。何といっても音楽は、演奏を聴けばできる奴もできない奴も一撃でわかっちゃうから、下手な奴はあきらめが悪ければ悪いほどかわいそうな思いをすることになるからね。
また、たとえば新弟子不足に悩む相撲部屋だって、まさか体重が45㎏しかありません、なんて子を入門させたりはしないだろう。向いてない奴にいつまでも不毛なことをさせておくのは可哀想である。


だからといって現代は「勉強に才能のない奴はいつまでも勉強にこだわる必要はない」というメッセージを生徒に対してあからさまに出すわけにはいかない世の中ではあるが、せめて期末テストの順位(上位10位までとかでも)を公表するぐらいは復活させるとか、勉強できる奴を公に褒めるシステムを少しは構築してほしいものである。先進国の中で家庭学習の時間がとりわけ少ない、という現状の打破に貢献するぐらいのことはできるかもしれないぞ。(何回か提案したけど、冗談にしか受け取ってもらえずにスルーされたけどな。)
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テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

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