最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

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音楽教師の孤独

音楽の教師になって以来ずっと、音楽の教師って、なんだかとても損な役回りである、と思っていた。

 まず、音楽の授業って、生徒が黙って座っていただけでは成立しない。例えば、一人残らず数学や英語が嫌いな生徒ばかりの教室でも、そいつらが座っている限り数学や英語の授業は成立する(というほど単純な話ではないのは分かっているが一応)。体育が嫌いな生徒ばかりでも、強面の先生が怒鳴りつけ、殴りつければ(という時代もなかったわけでもない)一応授業は成立する。だが、音楽の授業は、生徒が「音楽が好き」で、「その気になって」いなければ成立しない。
「歌うから立ってください。」
などという指示を出したとして、生徒が言うことを聞かなかったからといって、怒鳴ったり殴ったりしては「音楽」の雰囲気はぶち壊れて楽しくなくなっちゃうし、音楽嫌いな生徒ばかりの前で
「一緒に歌いましょう」
といっても無視されれば、やっぱり成立しない。今ではいろいろ(周囲からしてみれば)魔術も使えるようになったので何とも思わなくなったが、若いころ他教科の先生がどれほどうらやましかったことか。

 そして未だに、一番腹立たしいのが、俺みたいなボンクラ音楽教師が卒業式の式歌斉唱の指導とかで四苦八苦しているときに
「ホニャララ先生はすごい(すごかった)!何しろあの先生が教えると、生徒が見る見るうちに変わっていくのさ!すごく大きな声で歌い始めるのさ。」
「ホニャララ中学校じゃ、生徒の声が大きくてさ。全校合唱では体育館のガラスが本当にビリビリ響くんだよ。本当にさ!あの音楽の先生は本当にすごいねえ!」
みたいなことをこちらに言ってくる同僚の存在である。これは全くイライラする。だからどうしろちゅうんだ?教えてくれよ!!ってこと。
 この世界では、伝説的に偉大な音楽の先生、というのが存在していて、かつてその人と同僚だった先生がその時にいかに感動したか、という話をするのである。もちろんその人は掛け値なしに尊敬できる素晴らしい指導者なのは間違いない。それは実績にも表れているし、小中音楽会みたいな行事の際の、その先生が指導した生徒たちの演奏を聴いても(いやっちゅうほど)わかる。
 だが、そのホニャララ先生がどれほどのものか、その本当のところは他の音楽の教師には全く知るすべがないのである。何しろ、その場に居合わせないわけだから。昔からどんなに大きな学校でも音楽の教師は1校にせいぜい3人、今やほとんどの学校で1人しかいない。自分の勤務校を放ったらかしてその大先生の指導を見に行くなんてことできるわけないでしょ。実際、その先生がどんな表情で、どんなテクニックを駆使して、どんな指示をして、そもそも生徒とどんな関係を築いていたからそういう指導ができるのか、また、「大きい声」といってもどの程度の大きさなのか、声の質はどんなだったのか、響きはどういう風についていたのか、絶対に知るすべはない。また、知ったところでそれを自分が実践できるわけでもない。

 結局、様々な断片的な情報を組み合わせ、自分でできることを自分でイメージし、自分で工夫し、自分で完成させ、生徒とともに試行錯誤していくほかに方法はないわけだ。だから、その結果がホニャララ先生と違っていて周りの先生がもどかしい思いをしたところで、そんなのどうすることもできないわけですよ。私は私で必死にやっているんです。

 最後に、音楽の教師は、というか技能教科の教師は、常にほかの先生方から評価の対象にされる、ということ。なにしろ、体育はグラウンドでやっている授業はすべて見ようと思えばオープンであるし、美術ならば作品が並ぶ。(アホな美術教師の指導の下では幼稚な作品が並ぶ:これホント。)音楽の場合は音楽室から聞こえてくる合唱の声が直接的に評価される。それどころか、卒業式や入学式では全職員の前で歌唱指導をしなければならない。これはすっごいストレスなんですよ、実際。うまくいけば
「今年の生徒はよく歌うね。」
うまくいかなければ
「日頃の音楽の授業、どうなってるんだよ?(先生のせい)」
そして、いつだって指導者は褒められないような仕組みになっている。誠に、音楽の先生とは損な役回りである、ということが…少しはわかってくれよ~~~!!
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テーマ:うたと音楽 - ジャンル:学校・教育

コメント

他教科との価値観の違い

すっごくひさしぶにコメントさせていただきます。
音楽科って、明治時代にあった「行事」という授業の延長なんで、生徒に読譜力をつけても、鑑賞能力を高めても、全くといっていいほど、意味を理解されることはないと言えます。また「荒れ」の時代にはじまった合唱コンクールも「連帯感」が優先されていて、個人の音楽性を萌芽させたいとか、そういうことには意味がないのだろうと感じます。だから合唱で美しい発声によって歌わせることよりも「大きな声」…それは楽譜にppとなっていても、センプレフォルテッシモで歌わせることが他教科の先生にとっては価値があることなのだろうと思います。不思議なことにご自身が趣味でバンドをやっていたり、オケに入っていても、シロートすぎる先生と大差がないのです。不思議ですよね。

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