最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

「授業としての」道徳の評価


ついに政府~文部科学省が本気になって、「道徳」を教科とすることとあいなった。戦前の「修身」を想像して、禍々しさを感じるお年寄りもいることであろうが、まあ(誤解にもとずく部分もあるが)時代の流れでもあるし、道徳的な躾が親の世代ですでに全然できてないということもあるし、そういう大きなうねりの中でごちゃごちゃ言っても始まらない。
それにしても、『教科』であるなら『評価』をしなければならない。どうすんだ?まさか、授業の感想を書かせて10行書けば「5」で1行以下しかかけない奴は「1」か?というのは冗談だが(笑えない…)、報道によれば、こういうのは文章で評価しろ、ということだ。クラス40人の、一人一人の心の在り様を、一つの価値観にもこだわらずに多様性を認めて評価し、短い(せいぜいよくて7~80字)コメントにまとめるなんて、神ならぬ人間にできることなのだろうか。

ということで、これまでの生徒を具体的に思い出して、想像で書いてみたのだが、例えばこんなのもらったら本人や親はどう感じるであろうか。

「資料を真剣に読み込むことを常とし、特に「友情」をテーマとした教材では涙を流すほどに深く共感し、「道徳ノート」に感動的な感想を記述して、他の生徒の模範として発表することができた。」(うそです。そんな生徒いません)

「授業の時は常にまっすぐに教師の顔を見て話を聞き、指名されれば積極的に意見を発表した。」

「いつも明るく積極的に授業に参加している。率先的に手を上げて発言を求め、常に前向きで建設的な意見を言うことができる。また、それを日常生活でも実践しようと努力している。」

「クラスの『道徳係』として、授業が始まる前には欠かさずに副読本を配り、学習活動が円滑に進むように陰で気を配っていた。」


しかし、現実に本当のところを書こうとすれば、以下のような評価にしかならないような連中も少なからずいるのではないか。しかも実際のところはこんなの書けるわけないのだ。管理職からストップがかかるだろうからね。つまり、保護者には担任の本当の気持ちは伝わらない、ということになる

「道徳の授業ではいつも机に突っ伏して、寝ている。場合によっては熟睡してしまい、チャイムが鳴っても隣の生徒がゆすってもなかなか起きないことがある。道徳ノートは常に白紙のままである」

「常にシニカルな言動で、教師の揚げ足取りばかりする。資料を読んでも、「こんなの現実離れしている」などの発言をして学習活動を阻害することが多く、さすがにクラス内のかなりの生徒から疎まれていた。」

「道徳の授業には意義を見出せず、授業中には私語をしているので、うるさくてしょうがない。授業の開始時には「先生、今日の道徳はレクにしましょう」と大声で叫んで授業の雰囲気を作ろうとする周囲の雰囲気を壊す。」

「感想を記入するノートやワークシートには落書きばかりしていて、心情を推し量ることができない。いつでも違うことを考えているようである。」

「発言を促すと「考え中です」とか「(直前に発表した)ホニャラさんといっしょです」しか言わず、考えを深めようとしているとは毛ほども思えない。」

「塾の宿題のようなことをしていて、全く授業に参加しない。」

「朝読書の本を読んでばかりである。」


書いていて情けなくなってきた。ちゃんと評価できるのだろうか。
一度、提出された道徳ノートで、真剣に取り組んでいる人とそうでない人(あくまでもそう読み取れるだけのことだが)で検印の形を違えたことがあったのだが、それに対してすぐに生徒からクレームがついた。曰く、
「先生、これって、心の中身で優劣をつけているんですよね。そんなことしていいんですか?」
生徒だって馬鹿じゃない、というより誰だってわかるじゃない、そんなこと。第一、道徳ノートだって、白紙の生徒は毎度毎度けっこういるが、それだって、単に書きたくないから、面倒だから、というばかりではなく、周りの友達に見られたら嫌だから、先生なんかに見せたくないから、個人情報に抵触しちゃうから、など色々な理由で白紙のままなのかもしれない。だが出てきたもので評価するしかないわけだから、本当はたくさん思うことがあったってそれは胸の内にしまっておく、という生徒をどうやって見分けるのでしょうか?
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学校にエアコンは必要か~「必須アイテム」だろが!


 30年前、俺は埼玉県上尾に住んでいて、熊谷の職場に通っていた。(その時は教師じゃなかったが。)真夏の熊谷は昔から日本有数の暑い土地である。今ではそれを逆手に取った町興し、「あついぞ熊谷」なんてのをやってるぐらいだ。連日の猛暑の中、高崎線で上尾に帰ってきて、ホームに降りると、
「は~涼しい…。」
と思ったものだった。上尾の方が1~2℃は低かったであろう。俺の記憶が正しければ、その当時の真夏の気温は32~33℃。そもそも30℃越えと言ったら「うだるような暑さ」という修飾語とセットで語られていたものである。だが、記録を確認したわけではないが、当時の熊谷でさえも34℃という報道があった記憶はない。さて今はどうであろうか。

 先日、埼玉県所沢市で、市立小中学校のエアコン設置の是非を争う住民投票が行われた。報道された結果では、賛成5万なにがし、反対3万なにがし。そして、投票率は32パーセント。学校へのエアコン設置に賛成が反対を上回ったけど投票率があまりにも低すぎるので…、ということである。

なんだかね~。ひとことで言って愛情を感じないんだよね。

自分としての感想を言えば、まず投票率が低いことについて、やっぱりね~という感じである。要するに、子供が学校に通ってない人にとっては興味のないことなんだな。俺自身、高校生ぐらいから中学の教員になるまでの間は、小中学校なんかに何の興味もなかったし、中学生を街で見かけても野獣にしか見えなかった。そんな奴らの棲家にクーラーがついてようがなかろうが、どうでもいいジャンそんなこと、という気持ちは正直よくわかる。ましてや投票なんて面倒くさいし、ホントどうでもいいよね。
そしてもう一つ、反対した人が3万人もいたってこと。もともと、教育現場にエアコンを入れることには根強い反対がある。つまり、
「子供のうちにエアコン漬けの環境にいれば体温調節の力?が衰える。」etc.
暑さ寒さに我慢できるってことも含めて、力強さ、たくましさってものを「人として」若いうちに身につけてほしいってことだな。その意見には基本的には賛成である。今の若者は甘やかされすぎだろ!多少苦労させてでも将来のために子供を鍛えてやろう、という考えは大事だ。
だが、それも程度の問題だろが!10年ぐらい前から真夏の最高気温は上昇を続けているのだ。今じゃ朝の天気予報で「最高気温32℃」といったら冗談じゃなく
「今日は涼しいね」
というレベルである。30年前とは違うんだよ!現代の日本において冷房の効かない鉄筋コンクリートの建物は人間の生活する場所ではない。嘘だと思うなら学校に来て一日授業参観でもして見てごらん。現場で授業をしていても、そもそも授業中の集中力がまったく望めないなんて当たり前。それどころか、まずは健康上の心配をしなければならない。昔の小学生だったら、「日射病」でしゃがみこんだりすれば、体力のないだらしない奴、としてまわりの友達からあとあとまで冷笑されたものだったが、現代の「熱中症」は笑い事では済まされない。教育の話題でしょっちゅう出てくる
「俺らが若いころは」
というセリフは老人特有のノスタルジーの域を超えて、もはや『危険思想』である。

しかし結局、一般の意識はそんなものなのであろう。ゆで蛸になるかと思うほどの教室の暑さだって卒業したら忘れちゃうし、自分自身の子供とか孫とかが学校に行っていない限り、関係ないから興味がない。よしんば興味があったところで、自分の世界(体験・時代)での価値観でしか判断しない。だから、たかが学校に冷房を入れるかどうか、なんて取るに足らないことを真面目に考えてる奴なんか(小中学生の親を除いて)世の中にほとんどいない、ということだ。さみしいね。

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

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