最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

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落ちこぼれ生徒の個別指導について

高校入試に向けてラストスパートを展開中の12月中旬、ある保護者から以下のような電話が来たという。(以下要約)

1 (うちの子は)一年生の時から基礎・基本ができていないと指摘されていた。

2 学校では補習を計画してもらっているが、個々の力に合わせた内容ではなく、参加している子達全員への指導が中心だったため、なかなか基礎・基本が身についてこなかった。

3 一年生の時から何度か先生方に相談し、もっと細かく見てほしいとお願いしてきたが、なかなか個別では対応してもらえなかった。

4 受験まで約1ヶ月となり、基礎基本がしっかり定着していないため、勉強がはかどらず、本人も保護者も焦りを感じている。

5 先生方がいろいろな対応で忙しいのは十分承知しているが、頼るのは先生しかいないので、残り一ヶ月間、基礎・基本だけでも集中的に指導をしてほしい。


 これ、どうとらえればいいんでしょうかね。われわれは、この生徒をずっと放ったらかしにしてたのでしょうか。ここにあげられた要望というか相談というか苦情の内容には、実はいろいろな問題が内包されていて、一筋縄ではいかないのだ。

まず、 この内容が職員室に伝えられた際に一様に漏れたつぶやきは、
「この子の、家庭学習はどうなっているのよ?」
であった。改めて俺が言うほどのことではないが、「学習活動」とは「授業」のことではない。学校の授業は極めて重要な部分ではあるが、ごく一部である。そのほかにも、宿題や、提出物の作成や、自習の時間や、朝学習や、塾そのほか、いろいろな場面で子供達は「学習活動」をやっているのだが、中でも重要なのが「家庭学習」なのである。しかも、「自主的に」ってところが肝心だ。授業で学んで
「わかった!」
というのは、単なるきっかけに過ぎない。あるいは、道筋を照らしてあげただけ、とも言える。大事なのはそこからだ。理解しているということと、それを応用して問題を解けるということは、一致しない。だいたい勉強のできないヤツは、せっかく教えてやっても
「あ~~あ~~わかったわかった!これでもう大丈夫!」
と独り合点し、そのまま遊びに行ってしまう。そして、いざ中間・期末テストの時に問題を見て手も足も出ない自分に気づいて茫然とする。(度重なればあきらめちゃってどれだけ出来が悪くても気にしなくなる。)なぜそうなるのか。
定着していないからである。理屈がわかるだけで何でもできるようになれるんだったら、誰だって東大に入れるだろうが。
 一見簡単なことでも、定着して自分の血肉にするまでにはなかなかつらい努力が必要、ということが親子共々わかってない。だから、いざ成績を突き付けられてから大慌てしたあげく
「塾に入れば大丈夫。一安心。」
とか、
「学校の先生に個別指導をしてもらえないものか。」
という発想になるのだが、結局のところそれってラクして他人になんとかしてもらおうという魂胆だよね。だ~か~らっ、ダメなんだって、全然わかってない。大事なのは、自分一人でリビングのテーブル(イチ推し)で、または勉強部屋の机に向かって、あるいは塾の自習室で、自発的に孤独に学習を進める部分なのに!

 次に、公立学校というフィールドでは、先生が誰かを呼んで個別指導、というのはそう簡単にできることではない。
 まず、人手不足。教員の数は生徒の人数に応じて法律で決まっている上、授業以外にもいろんな仕事を抱えていて忙殺されており、それだけでも全く勤務時間内に終わらない仕組みになっている。(たとえば俺は勤務時間終了1時間後まで毎日部活動の指導をしている。)だから、学習の遅れ気味の生徒のケアについては、ある程度まとまった人数を一定の時期(長期休業中など比較的ヒマな時期)に一カ所に集めて指導するぐらいが関の山である。しかもそれにしたって行事だ出張だ、といろいろあるから、そうそういつでもできることではない。大昔みたいに「暗くなってからも宿直室に呼んで熱意の指導」というものも、今のご時世ではやるわけにいかない。
 さらに、そういう勉強会を開催するに当たっては、受講するヤツらに声をかけねばならないが、そこでは、実際に指導が必要なおバカちゃんにピンポイントで呼び出しをかけて勉強会に来させるにはどうするか、というチョー根本的なことが問題になる。つまりそいつにとっては「先生からの呼び出し」がかかるわけだから、周りはみんなして
「どうしたどうした何だ何だ(何か悪いことでもしたんだろ?)」
と詮索する。そこで
「あいつは補習だってよ。」
となれば、本人の名誉にかかわる。いや本人も仲間達もわかってはいるのだが、先生から呼ばれた、という事態はまた別の意味がある。すなわち、そいつが
「公式に勉強できないヤツと認定された」ということになっちゃうのだ。どう考えても愉快なことであろうはずがないのだから、切羽詰まった3年生ならともかく、1・2年生であれば嫌がって逃げ回る傾向があるのは当然だ。だが放っておくわけにはいかない。
 仕方がないから、全体に向かって、あくまでも「平等」という建前を前面に押し出して、自由参加として補習を開講する旨を案内するが、それで応募してくる生徒は、たいていは中の上の成績の者。つまり、とりあえず自主学習を進められるけどなんか自信ないな~、みたいな立ち位置の、正直言って来なくてもいい連中ばっかりである。そして、それでは「落ちこぼれ救済」という本来の目的は薄れてしまう。これではいかん!と、本当にヤバいのをリストアップして個別に召喚し、なんやかんや言い訳つけて逃げようとするのを説得してその補習に来させるが、やっぱり中の上の連中が邪魔をして(そいつらだって教えてもらいに来てるわけなんだから相手をしないわけにはいかないのよ)、そうそう「特定のこの子を中心に」やる、というわけにはいかなくなる。
 もし、保護者に頼まれたにしても何にしても、一人だけ呼び出して補習なんかやった日には、間違いなく周りの生徒や保護者から
「ひいき!」
という声が上がり、それは教師にとって致命的な問題である。ほかの生徒だってそうしてほしいのはいるし、こっちは金出して塾だ家庭教師だとやってるのに、あいつだけ何だ!と怒る保護者だって現われるであろう。つまり学校の信用にかかわっちゃうわけだ。仕方がないので、あくまでも「落ちこぼれを呼び出す」という肝心のところは隠して、しかも個別で、という形をとらないで、補習をやらなければならない

 さらにネックになるのは、その落ちこぼれ生徒の学力の程度である。極端な話、掛け算九九ができないとか、アルファベットが覚えられないとか、聞くこともあるだろうが、具体的に考えてみてよ、
例えば、2×9=18 はわかるけど、18÷9 が計算できない、という生徒(本当にいるんだよ、人としては普通に生活しているのに!)に素因数分解を具体的にどうやって教えればいいのか?
 そこまでではないにしても、例えば、X+(a+b)X+ab=0 の意味がわからない生徒にとって、X+8X+15 という因数分解で、まず15が何と何を掛け合わせたものか、それは3と5だ。おっと3と5をたしたら8になるじゃん。と脳内で思考するのが、極めて、極めて、極めて、複雑な作業である、ということがお分かりいただけるであろうか。
というわけで、一つの問題を解くのに、先生が一人つきっきりになっても何十分もかかる、という現象がそういう補習教室のそこここで発生することになる。しかも、たいていは集中力がなくてことさらに時間がかかり(だからよけい飽き飽きし)、やっと教えても次の日にはもう忘れていて、また最初からやり直し。さんざん教えてやっても、とにかくちょっとしか進まないから全然達成感が感じられず、勉強が余計にイヤになる。「基礎・基本ができてない」というのはそういう生徒のことをいうんだよ。まさに砂に水を撒くようなもので、どれだけ時間をかけても足りない、というのが実情である。
(しかもそこまでバカなくせに
「音楽の先生が数学教えるんですか~?」
と人のことをバカにするのだけは、こういう奴らは絶対に忘れないからね。)


以上、様々記述してみたが、冒頭に書いた保護者の不満に対しては、ほぼ答えになっているんじゃないかな。しかも、これほどの悪条件の中にあっても、何と驚くまいことか、こっちはあの手この手で「補習」を行っている。小テストをやって、できの悪い奴を基準点に達するまで何度でも残して再テストをさせるとかね。あるいは、受験間際になれば、なりふり構わず「落ちこぼれ」を呼び出して、数学で絶対0点を取らないように中1の一学期の内容を徹底的に叩き込むとかね。

 とにかく、ちょっとはこっちの事情だって察してほしいし、わが子に勉強させるというのはどういうことなのか、親としても少しは研究してほしいものである。他力本願でどうにかしようったって、そうは問屋が卸さないのよ。要は本人のやる気次第!
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「仰げばとうとし」にこだわるわけ

 前項では書き損じたが、俺が「仰げばとうとし」にこだわる理由はひとつ。この歌が、世代を超えて一緒に歌える歌である、というところだ。ワケのわからないイデオロギーとか裏の意味とかそういうものは一切なく、純粋に音楽上の問題だ、とこの際だから明確にしておこう。

 中学校の「卒業式」は、小中学校のすべての行事の中でも最も重大な行事である。何しろ、それまで住んでる場所が一緒だから、というだけで半ば強制的に集められた有象無象が半ば仕方なくそれなりのコミュニティを作ってそれなりの絆を作り、いいことも悪いこともひっくるめて9年間も過ごしてきたあげくに、それを解散させる、という式であるから、卒業生にとってはかなり特別の感情を持つことになる。
 また、昔からそこで暮らしてきて、そこの中学校を卒業して社会人になり、なにげに地域の中学校を見守ってきた大人たちにしてみれば、今年もまたイニシエーションを終えて一歩大人に近づいたヒヨコたちを祝う節目の式ということでもある。

 そんなわけで、「卒業式」というフィールドは独特の雰囲気を持っている。日頃体育の授業や部活動で暴れ回る場であるはずの埃っぽい体育館が完璧に清掃されて紅白幕や鉢植えの花なんかで化粧し、国旗や市町村の旗やでかい生花が飾られ、いすも定規で測って正確に並べる。もうそれだけで非日常感たっぷりだが、さらに居並ぶ教師もいつもとは違う式服を着て(女性の卒業生の担任は袴をまとい)、地元の市議会議員さんや場合によっては市長さん、代議士さんをはじめとする来賓が50人近くも格式張って着席すれば、いやでも生徒は緊張する。事前指導が(たいていは)行き届いて、日頃おかしな異装(髪の脱色、腰パン、ピアスそのほか)をしているバカ共もこの日ばかりは折り目正しくかしこまる。

 そこで演奏される卒業の歌は、基本「別れの歌」になるわけだが、その中でももっともポピュラーな曲が「仰げばとうとし」である。何しろ、発表されたのは明治17年だ。つい最近どこだかの国のメロディを持ってきた、ということが判明したようだが、格調高い歌詞が附されて極めて重厚な音楽となった(と思う。その証拠に、廃れちゃった文部省唱歌だっていっぱいある中で、未だに生命力を保って歌い継がれている)。だから、参列した保護者だけでなく、教師、来賓など、一切の「その場に居合わせた人」が一緒に歌うことが出来る唯一の歌なのだ。そういう、音楽を通じで、世代を超えて感動を共有できる瞬間を作ることができる歌がこの日本に存在するということそのものが奇跡的なことだし、幸せなことなんだよ。音楽は不思議なもの。若い頃習ったり歌ったりした音楽は、年をとった人でさえも自分の人生の中の、過ぎ去ったその瞬間を眼前に思い出させてくれる。
 「大地讃頌」もいいけどさ、やっぱり、こういう形にならない「日本の財産」を大事に守っていきましょうよ!

テーマ:教育 - ジャンル:学校・教育

学級崩壊~大人を小馬鹿にする子供達

 昨今は、「学級崩壊」という言葉もあまり珍しいものではなくなり、あっちこっちの学校で、どこそこの学年が、学級が、という話を耳にすることも実際に多くなった。いろいろ原因もあるのだろうが、悲しい現実である。

 さて、小学校で「学級崩壊」をおこし、中学に上がってくる連中には、やっぱりそれなりの共通点がある。
 まず、ヤツらは新入学の緊張感がほぐれてくると、たとえば音楽の教師(俺)あたりに、
「先生、俺たち、4年の時に担任の先生を二人も辞めさせちゃったんだぜ。」
なんて打ち明け話をし始める。こっちは先刻承知ではあるが、
「へ~そうなの。」
なんて相づちを打ちつつそこら辺の状況なんかを聞き出したりする。そういう話をしているうちに、わかってくるのだが、彼らは、単に報告をしているのではない。
自慢話をしているのである。
どういう経過をたどってきたのか知らないが、いつもそうである。誰がどんなことをして、担任の先生がどんな反応をしてどんな風に病んでいったか、それを手柄話として、喜々としてしゃべる生徒達。不気味でしょ?でもそれが現実である。

ということで新たな中学校の法則を披瀝しよう。
「学級崩壊の経験は、生徒にとっては勲章である」

次に、こいつらの決定的な特徴がある。それは、
「大人を小馬鹿にする」ことを覚えてくることと、「一生懸命やることを拒否する」態度を身につけてくることである。
何しろ、「担任」という大人をヘコませて、自分の目の前から退場させてきた、という「自信とプライド」があるわけだから、まず、教師の言うことなんか斜に構えて聞くところから始まるのはやむを得ない、というか当然の態度である。そして、上手に揚げ足をとる。ここで効果的にピシャリと叩き潰しておかないと3年間苦労することになるのだが、お人好しであるところの「教師」という人種は往々にしてそういう肝心なところで失敗することもある。しかも、こういう集団には発達障害の生徒が含まれていることが多いので、たとえばアスペルガーの生徒なんかは
「黙れ」
と言っても(それこそ思いっきりぶん殴ったとしても:もちろんそんなことはあり得ないが)絶対に黙らない、なんてこともあるから、うっかりすればそこで教師の権威が失墜してしまうことも考えられる。そういうヤツのあしらいを、この教師はどうするであろう、というのも、「その他大勢」の生徒は冷静に検分して次の時間からの態度を決めよう、と手ぐすね引いているのだ。
 次に、「一生懸命」「真面目」を否定することである。これは誠に悲しいことであるが、つまり学級崩壊を起こしたその時期には「何もしなくても」それが許されてきてしまっているので、やりたくないこと、つらいことなんかは避けて通るのが当然だと思っている。真面目に一生懸命やることによって実力を得ることが出来る、という快感を知らないのだから、これも当然のことである。

 だが、コイツらにも転機が訪れる。高校入試が迫ってくるわけだからね。通信簿の点を良くしとけ、と塾でも言われるし、部活の先輩に逆らうわけにもいかないし、課題をちゃんとやらなければ中学の教師は容赦なくありのままに評価をつけちゃう、ということに気づき始める。そして、態度を改めていく。一生懸命とか真面目とかの価値を実感する奴も増えてくる。人間になってくるわけだ。めでたしめでたし。
 もちろん、そういう空気を読めなくて最後までマイナス思考的行動を貫き通すヤツも中にはいるし、塾や厳しい先輩とは縁のない中学校ライフを選び取ったりして、グズグズ人間のままでいることに気づかない誠に可哀想な連中も大勢いる。家内のピアノのお弟子さん情報によると、我が家の近所の中学校で、今年の新入生(6年の時に学級崩壊)が大挙して入った部活が美術部だというんだから、つまりそういうことなんだよな~。

 とにかく、大人がこういう子供を作っちゃうんだよね~。
 教師だって人間だから、どいつもこいつも完璧な教育技術を持っているわけでもないし、失敗もある。それを「お客様感覚」で絶対に許容せずにクレームをつけ、我が子にはっきり
「どうしようもない先生だね」
と言ってしまう親たち。学校というシステムは崩れ、身勝手が正義だと思っている子供がどんどん増殖されていく。さらに言うならば、コイツらは「教師」とか「親」とかではなく、「大人そのもの」を鼻で笑って馬鹿にする、という空気を身にまとっているのが、何より不気味である。なんだか妖怪を見ているような思いに駆られることもある。(本当に人間なのか?)
すべては大人の、なかんずく「親」の責任だと思うんだけど…?
 

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