最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

要注意!いじられキャラ

 学校における「イジメ」は新たな局面に入ったようだ。

 先日、舞鶴の港で足におもりをつけられて海に落とされ、溺死した若い奴がいた。どうも、報道を見聞きしても、本人(周囲からは「いじられキャラ」と見られていた)にしても殺されるとは思ってなかったみたいだし、やった方にしても全然殺すつもりじゃなかったようなのだが…?でも普通、誰が考えても「凄惨な殺人事件」だよね。この意識のギャップはいったい何なんだろうか。

 「いじられキャラ」というのは最近現れた、俺の嫌いな言葉の一つだ。つまり「イジメ」られているのではない。まわりのみんなから何か言われたりちょっとからかわれたりするのを楽しむ(ようにもみえる)人間のことを指すようだ。相も変わらず低劣なTVのバラエティ番組なんかで下品な芸人達がよくそんなことをいって喜んでいる。自分がそうだと言って(認めて?)喜んでる奴もいる。勝手にやってろっての。
 けど、それがそっくり教室の中で再現されているのを忘れるなよ。昔っからお笑いにしてもプロレスにしてもヒーロー物アニメにしても、常に次の日には教室で忠実に再現されてきたのだ。さらに、好きでいじられてるならともかく、そういう奇特な人物がその場にいなかった場合、どうなるのか。

どう考えてもこりゃイジメだ!と俺には見えていても、やってる方もやられてる方も全然そういう意識がなく、どう見てもメチャクチャやばい場面を目撃した俺が
「何してるんだ!やめろ!!!」
なんて怒鳴って介入しても、双方から
「何怒ってるんですか、先生?」
と、心底不思議な顔で見られ、こっちも何が何だかわからなくなる場面がここ何年か発生するようになってきたのだ。
 だが、所詮は中学生。限度のわからない愚か者が教室の中に大量にいることを忘れてはならない。さらに、わざと限度がわからないフリをしている、たちの悪いサディストも少なからず存在する(母親はそれが自分の子だとは絶対に思わない)。それらが徒党を組み、弱々しいヤツを「いじられキャラ」と認定していじり始めればどうなるか。それは間違いなく「イジメ」なのだ。しかも、
「いじられキャラ」をいじるのは「社会的に認知された行為」、という論理を盾に、大人の介入を拒絶する。

 ついこの間、ウチの学校であったことだが、ある「いじられキャラ」が廊下の壁に手をついて足を開いて立ち、その股間を、学年でも乱暴者と目されている図体のでかいヤツが思いっきり蹴り上げる、悶絶しながらも笑うそいつ、大笑いする20人近い取り巻き。という場面を家庭科の教師が目撃し、憤慨していろいろ指導したらしいが、やはり「いじられキャラ」をいじって何が悪い論に阻まれて指導は通らなかったという。だが万一、そいつの睾丸が破裂したりして大事件になってしまったらどうなるのか。コイツらにはそういう想像力が欠落している。舞鶴の水死事件と全く同じ図式ではないか。しかも、周辺で笑っていた連中は、なにも愉快だから笑っていたわけではなく、自分がそいつらのターゲットにならないよう、必死なのだ。

 なんだか、ガキどもの間に、こういうワケのわからない、新しい悪のウェーブがきているのではないか。皆の衆、教員としての本能を研ぎ澄まして警戒せよ!!
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少しの余裕

 毎朝決まって遅刻ギリギリ、または、30秒~1分遅刻してくる奴がいる。毎朝昇降口で見ているこっちとしても、(まったく…)という思いで見ているわけだ。一緒に昇降口に立っている3年の主任が、
「もうちょっと余裕を持って出てこいよ!いつも言ってるじゃないか…。」
生徒は黙って、ちょっと照れるような笑いを浮かべて通過していく。主任と職員室に引き上げつつ、俺、
「本当になんてことない、<ちょっとの余裕>っていっても、それを持つことができないのが人間なのかもしれませんねぇ。人間って弱い動物ですね。」
と、つい言った。そういう俺も、今朝くたびれて起きられなくて、朝練に最初から顔を出せなかったのだ。

少年よ大志を抱くな

 俺が音楽大学の学生だったときの指導教官(作曲)は、最初のゼミの時にこう言って俺たちの度肝を抜いた。
「ボクはね、ベートーヴェンになりたいんだよ。」
目が点になるとはこのことか?目の前にいるのは幼稚園児じゃなくて、まさに50過ぎのオヤジですよ?もちろん作曲家としてかなり高名な先生であるにはちがいなかったが、その発想の一端に初めて触れて、ハ~ビックリしたわ~ってカンジだったな。そして、そのココロはと問えば、
「今も昔も、例えばベートーベンの時代だってベートーベンの他にも有名無名の作曲家がゴマンといたはずだ。そいつらが作った曲もまた山のようにあるはずだが、それはすべて単なるゴミにすぎない。つまり、ひたすら紙クズを製造し続けたそいつらは、人類社会の中で全くのゴクツブシだった、ということになる。だが、ベートーベンの書いた作品は人類の宝物だ。ベートーベンが死んで何百年もたってるのに、ずっと残って燦然と光を発している。ボクはそういう曲が書きたいんだよ。ボクは死んでから「人類のゴクツブシだった」なんてことになりたくないんだよ。」
ということになる。何という希有壮大!何という高く若々しい志であろうか。我々若造もその話に感動し、
「よし、俺も!」
と密かに心に期したものであった。後でその話を(将来家内になるはずの)友達に話して、
「君の目標は、同門の何トカ先輩じゃなくて、ルチア ポップでなきゃいけないんだぜ。」
なんてことを言ってたら、最初のうち(この人キチガイだ)と思われてたらしい。まあ結局、俺も根性がない凡人だったせいか、デモシカ教師になるのがやっとだったけどね。もちろん、言い方を変えれば、その時の、志を実現するべく努力した甲斐あったればこそ、俺みたいなダメ人間でもデモシカ教師になれた、ということにもなる。

 さて現在、倅が音楽大学に通っている(音大も二世三世の時代なのだ)。俺の母校でもあり、自慢するつもりじゃないが国内有数のレヴェルの音大である。しかもラッキーなことにそこの声楽科の主任教授が指導教官なのだ。ところが。倅のボヤキによるといつぞやのゼミだか何だかの席上で、ボクは将来音楽で食っていきたいです的なことを口に出したところ、その教授が意外な顔をした、というのである。そして、
「まずはアレとコレと…(レッスンの時間つぶしに困った教官に、下手くそで才能皆無な声楽科の学生がやらされる、といわれるくだらない教則本の数々。モナコやパバロッティがそんなもん悠長に勉強していたとはとても信じられない)を完ぺきにマスターしてからそういうことは考えた方がいいんじゃない?」
みたいなことを懇々と説教されてきたといって憤慨していた。こっちだって我が子とはいえ全然見込みのないヤツを音大に出すほどお人好しじゃないつもりだったから、ちょっとムカついた(親バカかい、という声も聞こえてきそうだが…)。それまでにも、周辺の学生たちの志の低さに親子共々あきれかえる日々だったのだが、歴とした主任教授がそんなザマだから、学生もそうなのね、というのがかなり明確に見えてきた。
 さらに娘によれば、
「友達と同レベルでなきゃいけないんだよ。他のヤツより一歩上を行こうなんて考えちゃいけないんだよ。それがユトリってもんだよ。」
ということになる。ちなみに、この「ユトリ」とは現行の指導要領にドップリつかった教育を受けてきた世代に対する嘆かわしい差別的名称のことであるのは言うまでもない。
「ユトリは友達とお手々つないで一緒じゃなければ何もできないんだよ。やっちゃいけないって教わってきたんだから。(そういう有形無形の独特の圧力は)お父さんは理解できないと思うよ。」
とも言う。

 ゆくゆくは我々の社会を牽引していくはずの若い奴ら。その原動力はやっぱり夢とか希望とか、ようするに目標だよな。その目標をことさらに低く設定させ、その芽を摘み、手足を縛ろうとする圧力とはどこから来るものであろうか。いいにしても悪いにしても、「普通」の範疇からはみ出そうとする人間を憎み、蔑み、毛嫌いする風潮も、昔からあるとはいえ今はもっと強力になっているのか。日本の将来は暗いね。

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原点に戻りつつある?高校入試

 今度高1になった連中の高校入試事情は、本当にヤバかった。というか、うちの学年はものの見事に失敗した。

 そもそもウチの県の公立入試(普通科の話)は、昭和末年度に推薦と一般に二分化されたものが前期と後期、という風に形を変えてずっと続いてきた。それも、「推薦入試」の流れをくんだ「前期募集」は調査書と面接だけで学力試験はなし、募集人員は定員の25~せいぜい50%、一方「後期」の方は5教科の学力検査、という形だったのだ。だが、特に上位校なんかで調査書の数字や生徒会みたいな実績はいいんだけど入学してからさっぱり授業についてこられない、という生徒が続出したことで、何年か前から「前期」でも学力検査に似たようなテストを行ってもいいようになっていた。まあ、「推薦入試」導入当初の高邁な理想は(下々が危惧したとおりの筋書きで)崩れつつあったわけである。何しろ、偏差値60の生徒が、それまで67でも危ないといわれていた進学校にヒョコッと合格しちゃっても、授業内容はまず理解できないだろうからね。

 さて、今年度であるが、そんな現状に鑑みてか学力重視の世論の風に流されてか知らんが、かなり抜本的な改革が行われた。まず、募集人員の比率を「前期」と「後期」で逆転させ、5~8割は「前期」で採っちゃう。しかも学力検査は前期で5科、後期で3科、その一方で、調査書に記述されるいろんな特別活動の実績は高校毎の方針できちんと点数化して(例えば、生徒会長は3点、副会長は2点、とか)加算する、というような形に変わったのである。つまり、かなり徹底的な「学力重視」の入試に変わったのだ。

 だがこの改革は、それぞれの指導の方針の違いにより、中学校毎でかなり明暗を分けることになった。つまり、それまでの流れで、「前期は受けたい高校、後期は合格する高校」とした中学と、昔を思い出して「前期は2ランクぐらい下げてでも安全パイ、後期は欠員補充のつもり即ち無いものと思え」と指導をした中学があったのだ。結果は当然、前者の中学は大変なことになってしまった。何しろ、募集人員は定員を下回るわけだから、特に人気のある高校では前期で驚くほどの倍率となり、高望みをした生徒は軒並み討ち死にをする。で、そういう連中がランクを下げて来るもんだから、後期は中位の高校もビックリするぐらいの倍率になる。一方、底辺の学校も、不景気も影響して定員割れを起こさない。結論を言えば、何が何でも県公立高校に行きたいヤツは、とにかく前期で合格しなければならなかったのだ。
 そして、流れに乗り遅れた我が学年は、前期が終わった時点で190人中50人近くも進路が決まってない、という惨憺たる有様だった。これは、私立進学もけっこうな割合だったことを考えると、すごい数字じゃないだろうか。何しろ、事前のシュミレーションでは、後期入試を受けるのは各クラス2~3人、と言われていたんだからな。朝、昇降口に立っていると、(上記のことをしっかり分析して把握していて)うちの学年の進路指導について声高に批判する生徒の声も聞こえてきたりした。
 だが、言い訳させてもらえるなら、そもそも親も本人も気位の高い地域だ(もっとハッキリ言えば元々中学校のことなんか全く信頼していない)、というのも問題なのだ。例えば面談なんかで、(コイツ何考えてんだ!)みたいな高校を受ける、と申し出てきても、
「イヤ、それはちょっと危なかろうと存じます…」
なんて担任が指導して変えさせたとすると(って、そう簡単には変えないけどなっ)、後で
「担任のせいで(目標を)下げさせられた!」
①うちの子じゃ無理なんだって、②担任の先生に言われてさっ!」
と親が触れ回ることになる。(あくまでも大事なのは①じゃなくて②なのよね~)じゃ、そのまま受ければどうなるか、と言えば、上述の通りだ。まさに学校不信のスパイラル!
 一方では、担任の指導を信頼して平穏無事にほとんどが前期で合格、なんて中学校もあるんだからね。やりきれない。

 閑話休題、そんな我が県の公立入試について驚くべき朗報が最近舞い込んできた。何と、このしんどい公立入試は今年度限りで(つまりたったの2年間で)終わり、再来年度からは「前期」と「後期」を一本化する、というのだ。何のことはない、20年以上昔の状態に戻るということである。
 まあ、例によって文句を言う輩も出るだろうが、その論調はわかっている。曰く、
「一発勝負ということになると生徒の心理的負担が大きすぎる。生徒の青春が暗くなる。」
「学力一辺倒になって、学力による輪切りが進んで高校(や中学)の序列化が加速する。」
だからなんだっちゅうの!
結局、こういうことを言う奴らの考えの土台にあるのは、
「子どもたちがカワイソ~!」
という、何の役にも立たない、というより子どもたちをスポイルする方向にしか働かない、ヒステリックな感情だけである。高校入試の心理的負担を重くして何が悪い?生徒を学力で輪切りにして高校に送り込んで何が悪い?高校入試だって一種のイニシエーションでしょ。人間には個性っちゅうもんがあるでしょ。勉強にだってものつくりにだって向き不向きがあるのに。人生の厳しさ、世の中の仕組みの真実を教える絶好の機会をグズグズにしちゃった今までのやり方なんて、結局は間違いだったと、やっと皆さん気づきはじめたということにすぎない。たとえ子どもであっても、厳しいこと、大変なことを背負わせなきゃいけないのさ。親として、そういう覚悟を固められないんじゃ、大人としてどうなの、と言いたいよね。

 まだ本決まりじゃないらしいが、それでも、雲の上の方でそんな方向性が話し合われるようになった、ということをまずは喜んでおこうじゃないか。

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