最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

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反省しない子

 冬季オリンピックである。スポーツの話題には疎いしあまり興味がないのだが、最近選手団の制服を着崩して話題になった若い選手がいて、たまたまその帰国記者会見の模様を見て、俺は年寄りの一人としてタメイキをついた。その選手はスノーボードの選手らしいが、ネクタイをゆるめてシャツ出しをして腰パンなんだから言うことなし、昨今の不良未満中学生の着こなしそのものである。だらしなさを「自分らしさ」とカンチガイしている可哀想な奴ら。その思春期のまんまの吹けば飛ぶような価値観を後生大事に引きずって、いい年になってしまった情けない青年たち。それが何かの拍子でオリンピックの選手団に紛れ込んだらこうなるわけだ。まわりの「大人」もさぞかし扱いに困ったことであろう。オリンピックなんて大事な場面でそんな「馬鹿」見たことがなかったろうからな。

 だが、最近のガキの現実なんてこんなもんであろう。TPOなんか屁とも思っていない。何かくだらないことをやってみせ、「大人」の眉をひそめさせることで一時の快感を得るが、あとから自分にどんなマイナスになって返ってくるか想像することもできない。だって教えられてないんだもん、「ユトリ」だからね。いろいろ変わっちゃったこともあって、基本的な「徳育」は省略されるしかなかったからね。ガッコーの先生だって、いちいち口出ししてくるモンスターペアレンツも怖かったろうし。

 それにしても可哀想なのは、この手の奴らには他人の意見を聞く耳を持っていない、ということなのだ。その証拠に、記者会見の最後に件の選手はこう言い放った。
「自分のスタイルを変えずに、そのままいきたい」

何でもある大学の学生らしいが、その大学も、
「本学の名誉を著しく傷つけた」
とか何とかいって除籍処分にするぐらいの気概を持ってほしいものだが(昔ならアリだったかもしれないが)ま、今時の大学だから、世論が怖くてそういうことはできないだろうな。そうやってこのような自閉的な価値観を持った連中はそのまま世の中を渡っていき、日本が崩れていく。この選手と似たような、「反省しない子供たち」を大勢身近で見ている身としては、実に憤懣やるかたないものがあるのだ、こういう記者会見を見ると。

それにしても、例えばもし彼が眼前に現れたときに、自分の会社に入れよう、と思う就職担当者がこの日本に果たしているだろうか、なんて想像しちゃうのだが実際どうなのであろう。俺なら真っ平なのだが?
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自己評価という名の自己欺瞞

 最近、4~5月・10~11月・1月、と俺たち兵隊(だけでもないらしいが)の手を煩わせる面倒なシゴトがある。その名も「自己評価シート」。まず年度当初に、各々の今年度の目標を「教科指導等」「学年・学級経営、生徒指導等」「その他の校務等」に分けて立て、それを記述するとともに、その目標達成に対する「難易度」を設定する(当初申告)。次に10月頃、その記述内容に対して途中で修正等があった場合に書き直す(中間申告)。最後に1月頃、目標が達成されたかどうかを報告する記述をし、「達成度」を書くとともに、自己評価をする(達成状況申告)。そして、そのそれぞれの時期に教頭および校長と面談して報告する、というものだ。ま、このように書けば、そうなのかな、という感じではあるが、実際にはどうなのだろうか。
そもそも、こういうのが始まったのも、もとはといえば「指導力不足教員」が全国的に問題になったために他ならない。子供の顔を見ることもできない、基礎的な教える技術も児童生徒と話をする能力もない、なんていう「あり得ない教師」を現場から排除するべきじゃないか、そういうシステムがないなんておかしいじゃないか、という世の中のバッシングに答えたものだったはずなのである。ところが。

 まずその目標設定であるが、普通の感覚で言う目標を設定することはない、というかあり得ない。たとえば一般企業の目標設定なら、売上高いくら、とか生産数とか歩留まりとか、自分の職務職責における数値目標を立てることができる。ところが、教員の場合それは立てにくい。というのも、結局のところ生徒にどう反映したか、という達成状況を数値化することができないからなのだ。うっかり「自分の受け持ち教科の中間期末試験の平均点70点以上」なんて目標を作ったとすれば、そこに向けて劣等生のテコ入れが必要になるし、それでも追いつかなければ(実際にはどうしたってまず追いつかないから)試験の難易度を下げざるをえなくなる。そうなると教育課程本来の目標にはたどり着けなくなっちゃう、とかそういう余計な問題がさらに発生する。じゃあ目標の平均点を30点にするか?それでは目標の「難易度」が低くなりすぎる。「生徒が音楽を愛好する心情を高める」なんてワケのわからない目標を立てちゃえばいいよね。それで本当にそうなったかどうかなんて計測することはまず無理だから、まあ目標を立てた当の本人が年度末に自分の受け持ちの生徒を見てこんなモンかな、と感じたとおりに自己評価すればいいからね。そもそも、大本になる学校教育目標自体が、「健康でたくましい生徒」とか「自ら学ぶ力を持った生徒」なんていうとても目標とは言い難いシロモノなのだ。まあ、あまりにも様々な人間の集まる公立学校だから、この程度が限界かもしれないし。
 そういうわけで、この「当初申告」は年度当初に申告しただけでたいてい忘れちゃうんじゃないかな。第一、このシステムが始まった最初の年はけっこう大変だったけど、その後はみんな前年度のを焼き直して使ってるからね。そのまんま平成何年のところを変えただけで出すなんて馬鹿もいるらしいし。で、年度末、「達成状況申告」の時が来る。その時あらためて、1年前に自分が書いた目標を見直すわけだが、そういうヌルい目標なわけだから、達成度もabc のb になるのは当然である。そして、自己評価(自分がどれだけがんばったか、を自分で評価するのさ)も当然真ん中の評価となる。くだらないでしょ?
 ちなみに、今年度俺は年度当初から病休を取った関係で、復帰後、代員がやったシゴトの尻ぬぐいのため、とんでもなく苦悩し、健闘し、しかも目標達成どころの騒ぎじゃなくなった、という部分があった。で、それを正直に「達成状況c、自己評価a」と書いて提出しようとしたら、教頭が、
「これはあり得ないんです。どっちもbにしてください。給料にも関係ありませんし」
と、修正を要求してきた。確かに自己評価でaを書くなんて、普通の日本民族としてはけっこう勇気が必要ではあろう。(でも書いたっていいじゃん。)だが、達成状況が悪い、と当の本人が思っているのにそれをbにさせようというのはどういう意図なんだろうか。そんなこんなしていれば当然、校長(教育委員会)のところに集まる自己評価シートはすべて達成度b、自己評価bのものになるわけであろうが、だったら、こんなのいったい何のためにやってるんだろうか。俺には全然意味の無いものにしか映らないのだが…。

 たしかに、それぞれの年度当初に、
「今年はこんな風にやったるぞ」
と新たな気概を持って取り組み始める、それを文書なり何なりにして表明する、というのは悪いことじゃない。というかむしろ良いことにはちがいない。だが最初っから困ってしまったのは、お上から降りてきたこの「自己評価シート」に書かなきゃならないことと実際のおシゴトとの間にけっこうな溝があるんだよな~。たとえば、「土日も返上して部活の指導やります!」とか「教材研究で毎日8時まで時間外労働をします!」なんて全然要求されないことだし、「学年会計を適正にやります!」なんて、できて当たり前のことだ。それに、俺たちが日々てんてこ舞いしている山のようにある細かいくだらない野暮シゴトをどこでどう評価してもらえるのか。そして結局のところ生徒にとって有益なのか、というところからまるっきりかけ離れているようにしか思えないのだ。となれば、それなりの時間を費やして書類を書いたり校長教頭と面談したりするのはただただ煩わしいばっかり、人の足を引っ張るだけのものにしか思えなくなる。今のシステムについては全く賛成できない。一時、給料の査定にこの自己評価シートが利用されるような話もあったが、それも沙汰止みになってるし、第一、もし給料に関わるんだったら誰だってaって書くじゃん。
 結局のところ、行政が住民の不満に対して
「こういう風にしてますよ~」
というアリバイ作りをしているだけで、現場では何の役にも立ってない。むしろ邪魔な書き物が増えるだけの、こういうのは正直よしてもらいたいものだよな~。

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悪夢の始まりか?最悪の合唱曲が氾濫の予感

 去年の「市内音楽会」(市内の中学校の代表クラス~各校の合唱祭で優勝したクラス~が集って演奏を披露し合う会)で、ある学校の3年のクラスが、歌詞がゴチャゴチャしすぎで全く何を歌っているのかわからない、メロディも歌詞を聴かせる効果の薄い出来損ないで、俺にとっては「聴く価値なし」としか思えないお粗末な曲を披露し、しかも客席の反応がそれなりによい、という、さっぱり意味のわからない出来事があった。
 この出来の悪い合唱曲(作曲を専門に勉強したことのない「アーティスト」さんがでっち上げたポップスを無理矢理クラス合唱用に編曲したというのが容易に想像できる曲)については、その歌ったクラス(ないし指導に当たった教師)の選曲眼?に多少の軽蔑を感じただけで、それっきり忘れていた。ところが、その年度のウチの3年生が、これを3送会で歌いたい、といいだしたのだ。は?どーゆーこと?と、いろいろリサーチしてみると、その曲の題名は「手紙~拝啓、十五の君へ」。あろうことか「NHK合唱コンクール」のその年の課題曲で、しかもそのアーティストさんが出した元歌のCDがけっこうヒットしているというんだな。ありゃーやっちまったか…、と俺はまさに苦虫を噛みつぶす気分になった。ま、その年の3送会の練習は授業と全く関係ないところで進んだので、こっちのおシゴトには影響がなかったからよかったのだが、その後の音楽の授業では、いろいろとやりにくいことが発生しやすい事態となってしまうことは想像できたし、実際その通りになった。
 さて、今年。NHK合唱コンクールの課題曲はまたしても「アーティスト」さんの曲となり、しかも今度の3送会ではウチの学校の3つの学年すべての学級委員会が、このYELLとかいう、もの悲しいばっかりで俺のようなジジイには何がいいのか全然わからない曲をやりたい、やりたい、と騒ぎ出す事態になったのだ。いったいどうしてくれるのかい、NHKさんよ!

 だいたい、歌というものはシチュエーションや演奏形態その他諸々の「目的」に基づいて、作られて(あるいは発生して)いるものだ。オペラアリアしかり、演歌しかり、民謡、唱歌、アニメの主題歌、ゴスペル、ロックンロールetc.すべてその場で必要とされる形として定着し、それを必要とする人々、あるいは場面場面で愛唱されるようになるものだ。中学生が歌う合唱曲だって、まあ略同型である。それなりにスキルのある作曲家が、合唱という演奏形態の持つ特性を考慮し、それなりの効果を考えて歌詞を処理しメロディや構成を考えて作ってくれていて、その中でもうまくいったヤツが副教材の合唱曲集なんかに定着して、流行り廃りを繰り返しながら何年も歌い継がれているわけだ。もちろん、たまにはクロスオーバーもあるよ。それがうまく機能して、新しいレパートリーが広がることだってしばしば起こる。だがもちろん、うまくいかない方が多いのは世の常だ。
 そして、ポップスを合唱曲にリメイクして移植する試みは、ずーっと続けられている、どちらかというと空しい努力の一つである。その理由は簡単で、ようするにそういう曲、それも昭和50年代以降の、「シンガーソングアンドライター」が歌謡曲の世界にドッと流れ込んできた頃からのものは、メロディに対する「日本語」の処理が合唱向きじゃないのだ。その理由も簡単で、ようするにその歌手自身が(あるいはその頃から台頭してきたカラオケで誰かが一人で)歌えればそれでいいのであって、みんなが一緒に愛唱しよう、というそれまで一般的だった農耕民族的な発想は作曲に当たって考慮されていない。だから新しいっちゃ新しいんだが、これらの曲は異様に十六分音符が多く使われ、シンコペーションも多用されて、普通に口ずさむにも実に歌いづらい。というより中には「メロディ」としての体をなしていないものさえも多い。おまけに、その「特定の」歌手が自分の個性を生かそうとすれば、余計に歌いづらく、合唱にしにくいものになる。たとえばそいつが「イ行」の発声がチャーミング(?)ならばその発音がことさらに高音域に集まるように曲作りをしたりするものだから、もしうっかりそんなのを合唱曲に作り直したりすれば、ソプラノが聴くに堪えない騒音を発生するようになるとか、そいつが異様に音域が広かったりすれば無理矢理な編曲を強いられるとか、ということになる。また、(サザンの曲のように)その歌手が歌ってこそ味が出て、他の人間が歌ったのでは曲のよさが完全に死んでしまう、あるいは(かつてのイカ天のヤツみたいに)根っから音楽性なんて皆無、なんてのも多い。たとえ(その世界で)それなりに出来のいい曲であっても、そういう細かい音符の連続にチマチマとシラブルの入ってっるメロディなんか、一人一人ならともかく、合唱として大勢で歌ったりすれば、ピンボケの写真を見るが如く子音はうすらぼやけてわからなくなり、言葉はさっぱり聞き取れなくなるのは当然の帰結だ。(あくまでも一般論よ。たとえば超人的な指導者が部活とかでたっぷりと時間をかけるとかすれば、また話はちがってくる)

 しかし、中学生程度の音楽体験では、そこまでの審美眼は望めないし、カラオケ屋のいい気分のまんまに歌えるものと思って、彼らは安易にこれらの曲をやりたがっちゃうわけである。だが、練習が始まるとすぐに、必ず発生する不協和音がある。それは、男子の
「何で俺たち普通のメロディが歌えないの?」
という、至極もっともな不満である。こっちにしてみればそんなのは当たり前で、合唱は「ハーモニー」を作るのが大事なわけだから、メロディとは別のドレミファで歌わなきゃいけないパートが必ず出るのだ。特に「サビ」の部分は聴かせどころなわけだから、編曲家にしてみればどうしてもかっこいいハーモニーをそこに持ってきたい。そうなるとたいていの場合メロディはソプラノに振るより他に方法がないので、男子が「カッコイイ」あるいは「よく知っている」サビのところをその通り歌わせてもらえる、なんてことはまずない。ところがたいていの場合、中学校の音楽の授業なんてものは「男子のやる気」をどう保つかにかかってるわけだから、音楽の教師は苦しい立場に立たされることになる。
 それをどうにかクリアしても、今度はそのメチャメチャに歌いにくいメロディにどこのパートも苦しめられることになり、おまけに完成しても何を言ってるのかわからなくなっちゃう、というのではあまりにも切なくはないかい?つまり、よくても「自己満足」にしかならない、困ったジャンルの合唱曲なのだ。第一、YELLというヤツのパート別CDを購入したのだが、この手のCDにもかかわらず、何を歌ってるのか歌詞カードを見るまではさっぱりわからなかった、というのは初めて聴いた。ホント、劣悪な教材である。(CDじゃなくて曲が。)

 だから、俺(俺たち?)は極力こういう歌を授業で合唱しないように気をつけてきていたのだ。たとえば(生徒に渡した歌集の中に入ってるというのも困ったものなのだが)AIのStoryとか、Kiroroの未来へとか、コブクロのここにしか咲かない花とかね。それなのに、NHKはそういう俺(俺たち?)の努力を、一番上の方からあっさりと空しいものにしてくれたわけである。何しろ「NHK合唱コンクールの課題曲」として、こういうしょぼい曲(あくまで合唱曲としてだよ)に完全無欠の権威を与えちゃったわけだからね、この罪はかなり重いものじゃないだろうか。結局、「ゆとり」の考え方、要するにやりたいことだけやって、一生懸命子供が打ち込む姿に大人たちが感動し、本当のところ中身は空っぽ、という現実をあらためて再現する道を大きく切り開いてくれたわけだからね。でも、合唱コンクールの(NHKサイドの)関係者は、普通(またはそれ以下)の学校現場でそんな混乱が起こっちゃってあちこちで教師が困惑してるなんてことちっとも考えてないだろうな。そもそもコイツら死ぬまでそういうのは理解できないであろう。むかつくぜ!

テーマ:合唱 - ジャンル:音楽

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