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最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

「音楽鑑賞会」の失敗例

 ある小学校での出来事である。
 例年の全校行事、「音楽鑑賞会」が迫ってきた。今年度は、地元、というより学区域で音楽教室も営みつつ演奏活動をしている、という声楽家を招待し、様々な歌曲など、本格的なソプラノ歌手の歌声を児童に鑑賞させましょう、ということで提案も通り、校長先生もその演奏家のお宅に演奏の依頼かたがた挨拶に出向いて快諾ということで、企画が進み始めた。
 声楽家のほうでは、これまでの経験・実績をもとに、意味のわからないイタリア歌曲やオペラなどの演奏は意図的に避けることとし、ソプラノ歌手であるところの自分だけよりは何人か知り合いの若い声楽家を集めて重唱などを交え、変化に富んだプログラムを考えた。(もちろん人数が増えた分はボランティアである。)
 ところがその後、音楽専科教員と声楽家との内容の打ち合わせでは、意外な雲行きになった。音楽専科としては、声楽家の示したプログラム(日本歌曲、唱歌、童謡等が中心)よりも、「クラシックの外国の歌」を入れてほしいというのだ。どうもこの先生にとってはその方が「高級な音楽」らしい。声楽家にしてみれば日本の歌のほうがよほど難しいし、専門にやってきたイタリアものなんかのほうがよほど気楽にできるんだけどね。そういう演奏側の心遣いは理解されることはなかった。そして、鑑賞会に臨むに当たって十分な事前学習を行い、歌詞の意味や内容などを児童に理解させた上で、当日を迎えるので心配ない、と主張し、それならばということで、「フィガロの結婚」の中の重唱や「ジャンニ=スキッキ」など(たまたま若い連中のレパートリーだったのだ)が演奏曲目の中に加わることとなった。そして、そのほかの細かい打ち合わせも十分執り行って、(声楽家側としては)当日を迎えるばかりとなったのだ。
 ところが、である。その後音楽専科の教員は何度も声楽家に連絡をしてきた。曰く、
「・・・・・・の歌はオペラのどの辺で歌われるのでしょうか。私、そのCDを買って児童にお昼の放送で聴かせるのですが、どのあたりかわからなくて。」(昼の放送とかって、そんなに何回も聴かせたら実際の演奏を聴くときに新鮮味がなくなっちゃうのではないのか?)
「・・・・・・の歌には特徴的なイタリア語の言葉は何がありますか。音楽の授業で聴かせるときにその言葉を探してごらん、という風に鑑賞させますので。」(そんな聴かせ方をして子供たちは何が楽しいのか。個々の言葉みたいな些末なことより曲の全体的なイメージをとらえる方が大事なのではないのか?)
「みんなで歌おう、というコーナーでは何を歌わせるのですか。事前に練習させますので。」(こっちでその場ですべてやるから放っといてもらって大丈夫だ、って打ち合わせしたではないか!)
「お飲み物を用意したいのですが、どのようなものがよろしいですか?」(コンディションのことを考えて、すべて演奏側で用意するって、打ち合わせの時に決めたじゃないか!)
まあ心配なのは解るのだが、この先生、子供のことを信用してないんじゃないの、ただひたすらに「音楽鑑賞会」の時に子供たちを静かにさせておくための小手先の方策を考えることだけに血道を上げちゃって、肝心の音楽のエッセンスなんてどうでもよくなってんじゃないの、というイヤなムードが演奏家側のほうに漂いはじめた。
 子供というのは正直である。これまでの経験上、子供は(たとえ1歳の赤ん坊でも)よい音楽なら静かに聴くし、ロクでもなければ騒ぐ。子供が騒ぐということは、つまり演奏家が未熟だからだ、と明確に悟っている演奏家としては、まさにいらないお世話なのだ。

 さて、そうこうするうちに本番当日、すなわち「・・・市立・・・小学校音楽鑑賞会」の日がやってきた。給食終了後、体育館にクラスごとに整列した児童が驚くほどの静けさで集合し、参観する保護者も座って演奏が始まった。そして無事終了したのである、表面上は。
 しかし、演奏家たちは、自分たちの演奏に対する子供たちの反応がいつもとは違うことを肌で感じていた。オペラのアリアや重唱は自分たちが主として勉強しているものでもあり、それなりの気合いと思い入れを持って演奏したのであるが、客席側では「またかよ」というつぶやきがイチビリの男の子から漏れ、ウンザリしたムードが漂ったのだ。(言葉がわからないからワケワカランという反応ならまだやりやすい。)それに比べて、事前学習の行われなかった日本語で歌われる歌はそれなりに集中して聴いていたし、みんなで歌いましょうコーナーでは演奏家たちが思っている以上に大きな声でノリノリに歌ったのである。すなわち、もともと子供たちの質はいいのだ。

 会が終わった後、音楽専科の教員は
「子供たちが静かに聴いていた」
ということに大いに気をよくしていたが、演奏家の側はなんだか割り切れない感情が残った。

 さて後日、このときに演奏を聴いていた何人かの子供たちが、ソプラノ歌手の家にやってきた。彼女はその子達の「ピアノの先生」でもあるのだ。そして子供たちがいうには、
「イタリア語の歌は4回の音楽の時間に聴かされた。」
「イタリア語の歌は毎日、給食の時間に流されてた。飽きた。」
「本番の時にイタリア語の歌が始まったら、ああ、アレか、ぐらいでつまらなかった。」
「同じ歌を別の人が歌っている、という印象しかなかった。」

 結局演奏家サイドが危惧したとおり、音楽専科の手腕により、素敵な音楽のエッセンスは見事なまでに事前学習でしゃぶり尽くされていた、というわけだ。そして、最も深い感動を体験できるはずの「生の演奏」の場は単なる消化試合と化してしまった。
 いったい、学校教育における音楽や美術(図画工作)の授業で、こんな学習は本当に必要なのだろうか。というより、芸術科というのはいったい何を子供たちに教える教科なのか。確かに知識・理解が芸術鑑賞を横から手助けしてくれるのは間違いない。だが、最も教え込まなければいけないのは、そんなことではないはずだ。
こんな教え方してれば、子供たちが音楽が嫌いになるのは当たり前だよね!
という演奏家の思いは、センスのない音楽専科の教師に伝わることはもちろんなく、子供たちが「よい音楽」をより一層キライになってゆく「学習」の営みが今日も続けられていくのだ。
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テーマ:音楽教育 - ジャンル:学校・教育