最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

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お弁当の日

 来年度から、学期に1回、「お弁当の日」なるモノが新設されてその日は給食が無しになるんだそうな。そういうことをしてる自治体って、他にもあるんですかね。ま、面白そうではある。ところが数日前、うちの職員室でその件が話題になっていたのだが、ある先生が、
「お弁当の日って、一体どうなるんだよな。なんか、保護者アンケートによると、導入に反対ってのが90%以上だったらしいぞ。それなのに導入しちゃっていいのかね~」
確かに、以前にも書いたとおり、今や給食は食育という以前に「子を持つ親に対する行政サービス」に他ならなくなっちゃてるわけだから、誰だって反対するに決まってるわな。(相変わらずお茶目な)ウチの市の教育委員会では、その日の周辺には「子供でも作れるお弁当」みたいな給食だよりを出して、何とか有意義にこの日を過ごしてもらいたいようなんだけど、どうなるんだろう。とても楽しみである。
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テーマ:学校での出来事 - ジャンル:学校・教育

褒めて育てる、という幻想


 俺はイヤな子だった。小さい頃から、褒められるのがキライだった。大人はよく俺のことを褒めてくれたが、そのたびに、(何でこんなことでいちいち褒めるんだ?こんなバカバカしい、誰でもできるようなどうでもいいことで…?)と心の中で思い、反対に大人をバカにする感情(のようなもの→大人なんてチョロいじゃん)を身につけて育っていったように思う。俺みたいな、もともとたいして能力の高くないヤツが、早くからそんなナメた考えを持ってしまえば、その後の人生がロクでもないものになるのは当然であるが、ま、それはおいといて。
 だからかどうか知らないが、俺は生徒を褒めるのが苦手である。というか、はっきりキライである。そんなのできて当たり前だろ、できるようにしとけって言ってあったじゃん、というのがまず喉元まで来てしまう。それを喉から胸に押し込め、つまりワンテンポずれて改めて「よくやった!」なんて言うもんだから、生徒だってわざとらしさを感じるよねぇ。
 それなのに今や世を挙げて、子供は褒めて育てましょう、ということになっている。管理職なんかもことあるごとに、異口同音に、そういうことばかり言っているのだが、本当にそんなの効果があるのかねぇ。

 ま、一言で言って、違うんじゃないの?何でもかんでも、できて当たり前のことでも見境なく、
「お~~よーやった、よーやった」
なんて言って見せたところで、そんなの意味ないって。
というより、重要な部分が抜け落ちている。それは「叱ること」。

 俺が部活をやっていてすごく調子のいいとき、というのは、なんだか生徒のことを叱ってばかりいるのだ。なんやかんや気に入らなくて、
「そんなんでどうするんだ!」
「それじゃダメ!」
「ちがう!」
「ふざけんな、いいかげんにしろ!バカヤロ~!」
なんてのばっかり。にもかかわらず、引退の時になって3年の部員が漏らす感想は、
「~~~~の時に先生に褒められたのがすごくうれしかった!」
???は?…そんな覚えないんですけど?オマエのことなんか褒めたことありませんって。
と、お腹の中では思いつつ、
「あ…、ああ、そうだったっけね~~。」
なんて、調子を合わせている。本当に褒めた覚えなんかないんですけどね。なんでそうなるのか。

 そもそも、褒める、と叱る、というのはセットとして考えなければいけない。褒められるばっかり、というのは人間をダメにする。よく1叱って10褒める、なんてことを言う「識者」がいるけど、逆じゃないかね。10叱って1褒める、ってのじゃダメかいね。相手の生徒にもよる、という意見もあるだろうけど、教育ってのは、「出来ることをよけい出来るようにする」よりは「出来ないことを出来るようにする」ほうが場面としては圧倒的に多いはずだ。つまり、通常は叱咤激励のほうが先に来るのではないだろうか。

 などと考えつつ、前述の「褒められてうれしかった発言」についてよ~くよく思い出してみると、実に他愛のない、素っ気ないほめ方なのだ。多分、
「ああ、それでいいんだよ」
ぐらいのことしか言ってないんだよね。指導する側が(こうあってほしい)という願いというかモデルに近づけようとする営み、それも現実には嵐のような泥沼のような戦いの中で、ちょっとでも近づいて(伸びて)くれたときに自然に発する何気ないOKが生徒にとっては限りなく大切な「褒められた体験」になっているというのは、けっこう意外、というか、示唆に富んでいる。


 ちなみに俺が褒められて一番嬉しかったときのことを書き留めておこう。

…俺はいろいろあったので音大受験を志したのは20歳になってからだ。それで、音大専門の予備校に通って猛特訓を始めたのだが、中でも一番苦手だったのは(今でもだけど)ピアノだ。ピアノの先生には怒られっぱなしだった。2年間、ず~~っと。氷のように冷たく、鬼のように恐ろしい女の先生だった。ところが、2年目に入ったある時、家で練習をしていて、急にピアノの音色が変わったような気がしたのだ。ウチのボロピアノが妙に派手な音を出し始めた。俺は気づかなかったが、その時ついに俺は腕と手の平の余分な力を抜くことが出来るようになったのだ。さて、その週のレッスンの時、いつものように先生の横で課題を弾き始めたら、いつも無表情な先生が、
「あら、どうしたのかしら…?」
と言ったのだ。少し口元をほころばせて。
浪人時代の2年間、さらに学部に入って2年間の副科も含めて、後にも先にもたったのそれだけである、ピアノで褒められたのは。先生はその後、以前よりも細かく指示を出すようになったので、俺もダメ出しのし甲斐のある弟子の一人に列せられたのか、と思って、氷つくようなレッスンも少しは苦にならなくなった。今にして思えば、きっと先生は俺みたいな下手くそを褒めた覚えなんかないであろう、というより、そもそもそれが「褒めた」ことになっているという意識なんかなかったはずだ。「あら、どうしたのかしら」だけだもんね!だが、俺にとってはその時のその、言った本人にとってはまさしくど~でもいい一言が、ン十年経った今でも鮮明に覚えているばかりか、一生の宝物になっているのである。


 「褒めて伸ばす」とは本来、そういうことを言うのさ。それを、そういう褒められた経験があまりにも嬉しかったジジイ連中が、それぞれ年とって、叱られた体験の方はきれいさっぱり忘れちゃって、
「人間、褒めれば伸びるもんだ!」
という物事のごくごく一部分だけを抽出して大騒ぎしている、というのが大方の現実じゃないのか? 
 若い教育者の諸君、そんなくだらない言葉に踊らされて、子供を叱りもしないで褒めるばっかりなことをやってると、本当に世の中ひねくれたクソガキばっかりであふれかえっちゃうぞ!「叱る」と「褒める」はワンセットなのだ。たくさん叱ることで、初めて褒めることが活きてくるってもんだぞ!

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学校音楽の危機~リコーダーに見る一断面

 小中学校を中心に日本の学校教育で使用されているリコーダー(たて笛)にはバロック式とジャーマン式の、二種類の指使いがあることは、使っている当の本人たちにはあまり意識されていない。だが、これには重大な違いがあるのだ。たかがプラスチックで大量生産される規格品であるにも関わらず、音に出てきた音楽の豊かさが違うのである。

 もともと、ヨーロッパで17世紀頃まで盛んに使われていたリコーダーは、フルートが発展するとともに廃れてしまった。なにしろ、ピアノ(弱奏)にすると音程が下がる、という欠陥をもともともっていて、近代的な音楽の世界では使い物にならないからな。それを、19世紀だか20世紀だか知らんが、ドイツの教育家が学校教育に使いやすい楽器として発掘し、本来面倒だった指使いを簡単なものに改造した笛を作って生徒に与えたことでそれなりの効果を上げた。それで、そのリコーダーの指使いをジャーマン式、というのだが、実はこのリコーダーは大失敗作だったのだ。複雑に見えたもともとの指使い(バロック式)は、実は転調とか派生音とかが現れたときにはとても有利に機能するのだが、ジャーマン式の場合はそれがかえってややこしくなってしまい、うまくいかない。そればかりか、無理矢理でっちあげた笛なので音程もなんだか不確かで聴いてて不快だ。結局、入門の時にちょっとだけ取っつきやすいというのが唯一の長所、というどうしようもない代物で、今では「ジャーマン式」と言うとドイツ人が怒る、というていたらく。ここ20年ぐらいの流れとして、ジャーマン式は廃れる方向に向かいつつあったのだ。
 だが嘆かわしいことに、この呪われた笛が21世紀の日本で、これから全盛期を迎えようとしている。

 昨年度まで俺が勤務していた市では、教育研究会小学校音楽部会という組織で「リコーダーはジャーマン式!」という嘆かわしくも時代錯誤な申し合わせがある。専科じゃない教師が小学3年生に教えるのが面倒くさい、というトホホな理由である。(それも、表向きの理由ですよ!それがプロの小学校教師なんだからね、お立ち会い!)7~8年前、現在俺がいる市から異動してきたある音楽専科の教師がその状況を見てびっくり仰天し、
「今時、何なのかしら!ありえない!前いた市(つまり今俺が勤務している市)では…。」
と怒っていたのを俺はしっかり覚えている。
 ところが!
 この間、音楽教師の集まりがあってそこで話していたら、何とこの市の3分の2もの小学校でリコーダーはジャーマン式だ、というではないか!俺はびっくりして何でそんなことになったのか聞いてみて、さらに驚愕の事実が判明した。
といっても話は簡単。つまり現行の学習指導要領が施行されたことで音楽の授業時数がカットされまくった挙げ句、ややこしいバロック式の指使いを子供たちに定着させることが不可能になった、というのだ。それで、リコーダーの落ちこぼれが大量に発生し、時間が足りないからそれをどうすることもできず、挙げ句の果てにとうの立った高学年になってしまうと音楽の授業でリコーダーを扱うことができなくなってしまい、という深刻な状況がかなり多くの小学校で常態化してしまい、たまりかねた教師たちが
「こんなにとんでもないことになるぐらいならジャーマン式で確実に吹けるようにした方がなんぼかマシ!」
と考え、この数年のうちに雪崩を打ってジャーマン式に戻ってしまった、というのである。そして、その結果は上々だ、というのだ。もともとこの市には小学校と密接に関わってきたリコーダーの演奏協会みたいな組織があり、そこの肝いりで結構早い時期にジャーマン式と決別した、という経緯があったということで、その組織のドンも必死に思いとどまるように音楽主任たちを説得したのだが、ついに無理なものは無理、と容認の方向に動いたという。悲しい話だ。

 だが、心ある人には先刻承知のことだが、
バロック式のリコーダーは「楽器」だがジャーマン式リコーダーは「おもちゃ」だ。俺自身、ジャーマン式からバロック式に乗り換えた学年が中学1年にあがってきたとたんに生徒たちの音楽的資質が格段に高まり、音楽の授業でさまざまな高度な要求についてこられるようになった、という体験を持っている。この時の感覚というのは言葉では簡単に言い表せないし、もちろん何らかの数値に表れる性質のものでは絶対にない。だが、間違いなく「音楽をする」喜びを、より深く知った人間の発する雰囲気を彼らは身にまとっていたのだ。
 しょせん「おもちゃ」は「おもちゃ」にすぎない。「楽器」としての必要十分な資格を持っていない、ジャーマン式リコーダーなんていうクソな物体を、今や俺は認めることはできない。そんなものを使っていれば音楽の授業の質は確実に低下する。というか少なくとも発展・深化はまず望めない。だからといって小学校の乏しい授業でバロック式は扱えない。中学校じゃどっちを取るか、というよりリコーダーのために音楽の時間を割くことすらほとんどできない。アルトリコーダーを生徒に買わせない学校も増えている(何年も前から俺も買わせてない)。ということは、そもそもリコーダーを学校音楽の中で扱う時代は終わったんじゃないのか?じゃあ学習指導要領にある「器楽」の指導はこれからどうする?(いろいろ積極的なアプローチをしている先生方も多くいらっしゃるが、そうじゃない大部分を占めるボンクラ教師にとっては)困ったことだ。そして生徒たちの感性はどうなる?未発達の感性を持った大人が増える10年後、20年後の日本が楽しみだね。

テーマ:音楽教育 - ジャンル:学校・教育

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