最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

普通の子

 ここ何年も、ずっと気になっているのだが、「普通の子」って、どういう子供だ?
 よく言われるよね、どこかで凶悪な少年犯罪が起きたときに、
「普段はおとなしくってねぇ、まさかあの子がね~」
「思いやりのある、いい子なんですけどねぇ?」
という関係者のコメントをよく聞くでしょ。つまり「普通の子」である。いわゆる有識者なんかも、
「何でそういう普通の子が?これはやっぱり教育に原因があるんじゃないでしょうか。」
なんて無責任に言いまくるもんだから、その矛先はもっぱら親や教師に向けられ、(親に対してはどうすることもできないから)やれ教師の資質向上だ、免許更新制だと、お門違いな方向に世の中が突っ走る要因の一つになってしまった。
 だが本当に問題なのは、そういう凶悪なことをする可能性のあるヤツが「普通の子」の範疇に紛れ込むようになってしまったことなんじゃなかろうか。あるいは「普通の子」はそういうこともするもんだ、という風に定義を変えなきゃいけなくなった、というか。そんな子供が育つように、教師がいったい何をしたと言うのか、非常に疑問である。

 まあ、誰が何をしたかはともかくも、「普通の子供」たちがどんどん変質しているのは確かなようで、それは俺たちも日々感じている。子供たちがキレたり不登校になったりするのは根は同じで、要するに他者との関係を正常に築くことができないのだ。そりゃそうだな、生まれてこの方、「自分が一番大事、周りの環境はオマエのためにある」というメッセージを与えられ続けて育ってくるわけだから、気に入らなければ相手に危害を加えるか、その場から逃げ出すかしか選択肢がないのだ。しかも、そういう、「うちの子を大事にしてよ!」という「社会のニーズ」に文部省なんかもだまされてそういう「超個人主義」教育のお先棒をかついできちゃったわけだし。最近やっと間違いに気づいて揺り戻しも始まっているけど、その効果が出るのはまだ数十年先のことになるであろう。何しろ、勝手な親に育てられた子供が今の子供たちの親なんだからな。まさに「教育は百年の計」なのだ。

 というわけで、昔の感覚の「普通の子」なんて、100人に2~3人ぐらいで、それではもはや「普通の子」とは言えないよね。たとえば、うちの子なんかは小学生の時に低学年の子供を集めて遊んでやるのを常にしていたら、ある時小学校の教師が夜電話をかけてきて、
「そういう変ったことは、やめさせてくれ」
といわれてしまった。だが、話を聞いても別に悪い遊びを教えているわけでもないので、俺がムカッと来て、
「何がいけないんだ?」
と聞いたら、そんなことを言ってるような親は変態だ、といわんばかりの口調で、
「同学年の子と遊べないなんておかしいじゃないか」
とは言ったものの、何がいけないのかは重ねて尋ねても答えることはできなかった。要するに、(勝手に異年齢集団を形成して遊ぶ)昔ながらの「普通の子」の扱いなんてこんなもんである。つまり、「普通の子」の概念は、誰も気づかない?うちに、すでに大きく変わっているのだ。

 現代の「普通の子」は、まず非常に強く自己を抑制することができる。スポーツでもお勉強でも真面目に取り組むことができる。友達とは仲良くすることができる。親や先生の言うことをよく聞き、危ないことや無茶なことはせずにおとなしくしていることができる。親に言われるままに、小学校ではスポーツ少年団に加入し、中学校では塾に行き、スケジュール通りきっちりこなせる何より、勝手なことはしないずいぶんイイ子だよね~。少なくともガキの頃の俺にはまねの出来ない芸当である。こんなイイ子ばっかりが「普通の子」としてずらっと並ぶなんてこと、あり得るのだろうか。俺は絶対に変だと思う。
 だが実は、これはすべて、「大人の前では」という限定付きなのである。そうでないところではもちろんそれなりのことをしているのであろうが(その内容には大いに問題があるのだが、取りあえずおいとくとして)、もし、こんな生活を続けていく彼らが、何らかの原因でバランスを狂わせたときには、心理的なダメージコントロールはかなり難しくなるのではないか、というのは理解できるであろうか。
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世界に一つだけの花

 まあ、今更という気もするが、スマップの「世界に一つだけの花」という歌があり、俺はこの歌が大嫌いである。というか、こんな歌が世の中に影響力を持つグループによって歌われ、一般に浸透しちゃうことは教育上非常にまずいことだ、と初めてこの歌を聴いた瞬間に直感し、苦々しく思ったのをいまだに覚えている。同時に、この歌を教育現場にストレートに教材として導入するバカが大勢でるであろう、というのも容易に想像できた。まあ、音楽作品としての善し悪しで考えれば、好みの問題だからね。自分で聴いたり歌ったりするのは個人の勝手ではある。だが、教育上の「思想」として考えた場合には話は別ではないかい?
 何しろ、この世は競争社会、一皮むけば弱肉強食。そんな世の中にこれから出ていこうという頑是無い子供たちに、わけがわからないうちにこの歌のメッセージのような考え方を吹き込んでしまっちゃっていいのか?そもそも、人類の進歩は(なんて大上段に構えることには常に照れくささを感じるのだが)「切磋琢磨」が大きな原動力の一つになっていたはずである。他人と競争し、勝利しようとする感情は、生きていく上での重要な基礎的能力(生きる力)の一つのはずだ…よね。それはどんな形にしろ鍛えなければならない、と俺は常々思ってきた。期末テストの順位しかり、部活動の結果しかり(勝利至上主義は極端に行き過ぎがなければ必ずしも悪いものじゃないでしょ、というか、俺はあえて積極的な意義を見ているのだが)。すべてとは言わないが様々な場面で「一番になりたがる」ように、我々は疑いも抱かずに、あるいは無意識に、日々仕向けているし、実際そうやって生徒の力を伸ばしてきた。俺自身だって、人に負けるのはイヤだ、と今でもこだわって努力している部分もあるし、人生の中でひたすら1番を念じて励んできた時期もある。それこそが自分自身を表現することになる、と信じて!
 それなのに、ああやっぱり、というべきか、この歌を心から気に入った教師(というか大人たち)がた~くさんいたのだ。「個性の伸長」が教育界でも声高に叫ばれていた時期でもあったからね。俺はこの歌がヒットしていた当時はひたすらに黙殺しようとしたものだったが(完全には無理だったのは言うまでもない)、ほどなく小学生たちは鼓笛隊なんかで演奏までしたりしてすっかり慣れ親しんで中学にあがってくるようになった。中学の教師でさえ、この歌が好きだ、なんて言う奴がいる。しょうがねぇなぁ。うっかり生徒になんか言うなよな。(体育祭とか、どうやって生徒にがんばらせるつもりなんだ?足すくわれねぇか?)

 だいたい、この歌を歌っている人たちはある意味非常に能力の高い、言い方を変えれば「一番になった」人たちといえる。「タレント」ってぐらいだからね、そりゃ当然である。結局、「世界に一つだけの花」を咲かせることができるのは「一番」を目指したヤツだけなんだ、と、なんかでこの歌に関わらなきゃいけない時には、俺は生徒に言うことにしているのさ。
 だが、一つ怖いのは、歌(音楽)というのは理屈でなく心に浸透してしまうことがあることだ。子供たちが将来何気なく口ずさむとき、無意識に切磋琢磨が必要な肝心の場面から逃れようとする感情(もっとはっきり言えば怠けとか逃げ)の手助けにこの歌がなってしまう、なんて妄想が杞憂であることを切に願う。

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