最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

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教師の高齢化

 この間林間学校から帰ってきた。10㎞ほどのハイキングがあった。足にもともと故障を持っている俺は次の日、両方の膝と足の甲が痛くてほとんど普通に歩くことができなくなり、ついに午前中年休を取って病院へ行く羽目に陥った。家内が言った。
「アナタ、もう林間は無理です、って言うようじゃない?」
寄る年波には勝てないということなのか、認めたくはないのだが?

 10年ほど前、教員の平均年齢は上昇する一方だったように思う。何しろ、俺の年齢と、職場の平均年齢が全く同じで何年も推移するのだが、考えてみるとこれはけっこう不気味なことである。現在は俺の年齢よりも職場の平均年齢は3歳ほど若くなった。つまり若返ったってこと?(それでも48歳だよ!ジジババばっかじゃん。)

 数年前、まあいろいろあって結局娘を私立中学にやったのだが、このとき候補に挙がったのが2校あった。一校は老舗大学付属の女子高校で、高校の募集人数を削って中学部を併設する、というもの。教員はその高校の教師が兼ねることになる。もう一つはやはり私立高校なのだが、数年前に既存の高校に隣接する土地に新たに中高一貫コースの校舎を新築し、全く別ラインのカリキュラムで大学受験に備える、というもので、教員は新たに募集してきたという。偏差値的には前者の方が5ぐらい高かったと記憶している。娘はその両方に合格したのだが、俺は迷わず後者の中高一貫校を勧めた。その理由は一つ。

教員がみんな若いから!
そしてその読みは当たり、娘はまさに充実の3年間を送って高校に進学したのである。

 さて、学校のセンセイが年寄りだとどういうことが起こるか、想像したことがあるだろうか。
 まず決定的なのは、年寄りは進取の気性が薄れていくということだ。たとえば、俺なんかでも、30代の頃は研究授業なんて、やって当たり前、この次は何をしようか、みたいにアイディアを絞ることに喜びを見いだしていたものだったのに、今じゃとても億劫。第一「50すぎてこんな授業しかできないのかい」なんて言われるのもヤだし、だからといって新しいことにチャレンジする勇気も薄れる。指導案も、以前書いたものを焼き直しする誘惑に、けっこう負けそうになる。(まだ負けてない。)つまり、たいていは少しずつ授業がマンネリ化するということだな。
 次に、行事。やはり新しいことがイヤなわけだから、企画段階で、楽な方へ楽な方へ、と進んでいく。修学旅行も、一時いろいろなアイディアでバラエティに富んだ企画が多かったように思えたのだが、今はあまり聞かなくなり、無難な京都奈良2泊3日タクシー見学なんてのが幅をきかせているらしい。何か新しいことをやろうとすると、必ず教員に負担がかかる。その分の準備だとか、予期せぬ部分へのメンテナンスとか、まあけっこう大変なわけだ。でも、生徒は楽しめるし、充実した行事ができるようになるのは当然である。だが、老齢化の影響がもっとも顕著に表れるのは「林間学校」ではないだろうか。

 俺が新任の頃の林間学校といえば2泊3日。初日はハイキングで湿原を10㎞歩き、キャンプ場(電気水道風呂水洗トイレなし)に入るなり飯ごう炊さんで夕食、夜はランプに火をともす。もちろん懐中電灯なしでは外は一歩も歩けないほど真っ暗闇である。2日目は早朝から飯ごうで飯を炊いて朝食をとるとともに昼飯用のおにぎりを作り、2500m級の登山である。(ちなみにキャンプ場の標高は1800m。)沢伝いに倒木をくぐったり乗り越えたりして道なき道を上り、トイレは男も女も青空の下にする。天気が急変すれば足下からゴロゴロ…という雷鳴が不気味に轟く。雷雲はこっちがいる地点より低い場所に発生するのだ。2時過ぎ、やっとの思いで帰ってきても、すぐに夕食作りの飯ごう炊さんが待っている。そして夜はキャンプファイヤー。次の朝は最後の飯ごう炊さんをして朝飯を食い、ランプのホヤを洗って返却し、おきまりの清掃をして出発、ニジマスの養殖場で体験学習をして帰ってくるという、こうして書いて思い出してるだけでもヘトヘトになるような、めっちゃハードなキャンプであった。

 今やこんなの↑絶対無理。生徒もへこたれちゃうだろうが、それ以前に学年会での企画段階で「いーよ登山なんて。」「キャンプ場じゃなくて食事出してくれる宿泊施設ないの?」という声が職員から囂々とわき上がるのが目に見えるようだ。それでも、時たま若いヤツが何かの加減で林間学校の担当になったりすると、それまでやってなかった「登山」なんてのが突然復活したりするから面白い。やっぱり若い教師は学校を活性化させる最重要のキーパースンなのだ。

 もう一つの重要な問題として、やはりジェネレーションギャップがとても埋められない状況になってきたということか。何しろ、俺なんかは自分の子供でさえすでに大学生。子供の間でのコンテンポラルな話題にはとてもついて行けない。生徒も、若い先生には打ち明けられることも俺みたいなジジイには話してはくれない。こっちの言うことも妙に道徳的になってしまったり同じことを何度も繰り返す老人的なスパイラルに陥ってしまったりして、(こりゃ~若いヤツの心には入っていかないだろーなー)と自分でウンザリしてしまうことさえもあるぐらいだから、生徒(特に不良)との関係構築にはかなりきついものがある。

 さらに、純粋な老化現象。老眼になってきて細かい生徒の書き物なんかが読めなくなったり、最初に担任持った頃には2日でクラスの全生徒の顔と名前が一致したのに今では一週間かかっても覚えきれない、などけっこうな不具合が生じる。そのうえ、喧嘩してるだの、ガラスが割れただのという、緊急事態の時のハシッこさも衰える。膝が痛くて走れなかったり、とかね。「避難訓練」の指導一つとっても、けっこう骨が折れるというわけだ。

 ところが知っての通り、若い教員の補充はほとんどないわけだから、俺たちのほとんどは学校運営に関わる厄介な仕事を新たに抱えつつ、本来若いヤツに任せるはずの仕事を若いときのまんまこなさなければならない。たとえば、かつては35ぐらいになるともう部活動の顧問は引退し、管理職にならないまでも学年主任や教務・進路指導主事など学校の中枢を担う仕事にシフトしたものらしいのだが、今では40すぎても50になっても部活の顧問をやらないですますなんて夢のまた夢、学級担任だって引退寸前までやっている先生も多い。だが、現実には教師だって人間(というより一市民)なワケで、それぞれのライフステージによって子育てに手がかかるときもあるし、今現在の深刻な問題として、自分の両親の介護なんかがのしかかっている人だって相当増えているはずである(実際そういう話をよく聞く)。

 要するに何が言いたいかというと、年寄りだらけだ、というそのことだけでも今や学校が機能不全寸前だ、ということだ。何かが狂ってうまくいかなくなったりしたときのダメージコントロールなんかの際には深刻な力不足を露呈する可能性は高くなる一方なのではないだろうか。
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採用試験で贈収賄

 まったく不愉快なことではある。というか、複雑な思いだ。ついこの間管理職試験のことを書いたばっかりでこんな話が持ち上がるとはねぇ…。大分県の(まともな感覚の)公立学校関係者はさぞかし大変なことであろう。教育界全体に対する「信用失墜行為」としか言いようがないからね。とにかくこんなに金が動いているんじゃ、話にならないね。一人あたりの相場が200万なんて報道もあったな。
 しかし、ちょっと教員採用試験に首をつっこんだ人なら、誰でもコネが大事だということは知っている。どこの県でも一緒じゃないのかな。

 俺も自分の採用試験では2度失敗して、3度目の正直で合格したが、その際にはどうも裏で当時俺が講師として勤めていた学校の校長が動いていたっぽい、定かではないが。あとで聞いたところによると、校長は「アイツ(俺のこと)は女房子供がいるからな、なんとかせにゃいかん…」と飲み会なんかの時に何度かもらしていたらしい(俺自身は実弾なんか撃ってないよ、実家は貧乏だし兄弟も多かったからね、ない袖は振れなかったはずだ)。有り難いことではあるが、やはり実力による合格ではなかったのか、いや、妻子を養い、食っていかにゃならんのだから、罪悪感を感じている場合じゃない。誰だって我が身がかわいいのだ、誰かを蹴落として成り上がってなんぼの世の中、環境だって利用できるんだったらするべきなのだ。あとでいくらだって恩返しはできる。
 それに、当時でもウチの県では1次の合格はマークシートで不正のしようがないというし、2次は面接だ何だといっても結局は好き嫌いで判断されてしまう。コネなんてあった方がいいに決まってる、と考えるのは人間としてまったく正常な発想であろう。

 などと、何年かたってから思ったものだった。
 そういえば、当時の2次試験の面接の中に、黒板に何か漢字を書かせる、というのがあった。前述の校長が、
「その時(前年の2次試験)に、書いた字を消しなさい、と言われたでしょ?」という。俺がうなずくと、校長は、
「その時にはなるべくチョークの粉が飛ばないように、黒板消しを上から下に向かって動かして消すんだよ。」と教示してくださった。ほぇ~、思いも寄らなかったよ。だが、そういうのの積み重ねで最終的な合否につながるんだからバカにはできない。(前年の俺のように)何も知らない奴は損するにちがいない。そのほかにも、集団面接の時のノウハウをいくつか教わったりして2次試験に臨んだものだったが…。

 同僚の一人も、奥さんの出身県の採用試験を受けるか受けないか迷ったあげく結局不確実を嫌ってやめたのだが、あとで聞いたら、もし受験すれば合格することに決まっていたらしい、といって口惜しがっていた。何と、その奥さんの父親がその県じゃ政治力のある校長先生だった、というんだな。やはり環境に恵まれている奴はうらやましいもんだ。

 たぶん、日本全国でこんな話は枚挙にいとまがないであろう。だが、何年か講師をやって、
「コイツは使える」と上司に思わせるのは採用試験の一部とも言える。人物なんか判断のしようのない若い「一見さん」を公平に評価するなんて、神ならぬ人間のできることではない。採用担当者にしても、受験する人物の事前情報は知りたいではないか。その時に、「コイツは~~校長の…だってさ」ということになれば当然、ねぇ…。
 だが、それで確実に「使える奴」が合格すれば何も言うこともないのだが、「かけ離れた奴」が合格するのもけっこう目のあたりにしてしまった。俺と一緒に採用試験を受けた奴の中で一人、そういうのがいたぞ。集団面接の時にも(内容は覚えていないが)全然説得力のないことをもっともらしく言いまくり、話していても今風に言えばKYな奴で、「こいつはイの一番にはねられるな。」と思っていたのに合格して、その後何年たっても受け持った吹奏楽部はコンクールでも堂々とハチャメチャな演奏を披露しまくり、臆面もなくどうでもいいようなコトをさも一大事のように言いながら研究授業なんかやらかしたりして、周辺からもあきれられてる奴が。やっぱ頭の悪い奴は一生頭悪いまんまだからね。そういう哀れなのを見ると、情実受験はイカンなぁ、と思うこともある。

 要は、使える教師を採用してもらいたい、ということなんだけどね。

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