FC2ブログ

最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

受験指導は不親切に決まってる

 高校入試に当たっての、中学校のアドバイスというか進路指導は、はっきり言って不親切きわまりない状態である。保護者からの不平不満は重々承知でやっているのだ。

 もとはといえば、平成4年、埼玉県教育委員会教育長の竹内という、ものの道理もわかってないジジイが「業者テストを学校から追放しろ!偏差値なんて進路指導に使うな!」とエキセントリックに叫んだことから始まった。前兆はあった。長年やってきた業者テストの運用のしかたやそれに伴う進学指導に問題があり、制度疲労としかいいようのない状態に陥るとともに「偏差値輪切り」という批判が強まってきていたし、また「カイワレ親子の偏差値何とか」みたいな本が世間の注目を集め、「偏差値ってナニ?いかがわしい感じじゃね?」という風潮が醸成されつつあったのも確かだ。その頃受験指導を行った若かりし(バカかりし?)俺なんかは文字通り「生徒の顔が数字に見え」てきて、そのあまりの人間蔑視の感覚にある日気づいて恐れおののいた、という得難い経験をした。

 当時の業者テストは、全県一律の問題を実施してその県ごとの公立高校入試に対応し、学校のような小さな母集団(せいぜい多くて400人、ヘタすると50人ぐらいのところも)では得られない貴重なデータを中学校の先生に提供していたのだ。そもそも「偏差値」というものも、会場テスト(かつて中学校で行っていた)の業者のHPを見ればわかるとおり、「悪のレッテル」というものでは決してない。実際、生徒の3年2学期の何回かの偏差値アベレージと、過去のデータと、進路指導担当者会議に持ち寄った進学希望状況なんかを照らし合わせれば、個々の生徒がどこの公立高校に合格できるか否か、なんてことは当時ほぼ正確に予想することが出来たが、それを個別面談かなんかの時に「お宅のお子さんは…」と告げたところで、それは単なる現実に過ぎないんだから、「ウチの子が悪くとられた」と、学校を恨む筋合いのものではないであろう。むしろ感謝してほしいぐらいだ。しかも、その際に「偏差値」という物差しが妙に注目されたので、たとえば政治家なんかが「そんなモン無くしちまえ!」という方向に叫んでみせれば知的レベルの低いヤツにはそりゃウケるであろうな。

 というわけで、時の文部大臣(鳩山だったはず)がそれにいっちょかみしたことで日本中が大騒ぎとなり、「業者テスト」と「偏差値」が中学校から追放された。中学校の職員室では「偏差値」という言葉に対して、まさしく「言葉狩り」が行われた。そして、高校受験に当たっての資料は、すべて中学校の先生が自前の方法で、自分たちの生徒をよく見て、いろいろな方向から収集し、蓄積したデータによって行うように、ということになった。それまでにも伝統的に業者テストのお世話になってなかった学校、なんてのもクローズアップされてもてはやされたりした。だが、とにかく「偏差値」を使うな、というんだから、これはまさしく噴飯物である。俺たち兵隊が不安を訴えても、管理職からは耳あたりのいいきれい事の文言(役人ってそういうのをひねりだすのだけはうまいよな)の洪水を浴びせかけられ、黙らせられた。しかも最後には、「出来ないはずはない」といわれるから。それって「出来ない奴は無能」ということだよね。それ以上は突っ込めない。
 しかし、これが後先を考えない愚かな行為であった、ということは結果が物語っている。(俺たちには最初から明白にわかっていたけど)とにかく、年を重ねるごとに公立中学校に甚大なダメージを与え続けることとなった。

 まず、「業者テスト」は「会場テスト」と名前を変えて生き残りを図った。その際に公立中はもはや相手に出来ないんだから、私立高校(会場を提供してもらう)や塾(受験生を集めてもらう)と結託を強めることとなった。そして、これまで中学校で行っていた時に問題になっていたテストの実施方法を見直すなどしたりして不公平感を無くしたうえ、「偏差値」という最強の武器を駆使してデータを集積するようになったが、そのデータは、すべて塾のものとなった。
公立中の方は、自校作成の「実力テスト」などで合否判定の基準となるデータを収集しようとしたが、何しろ母集団が小さいからデータが意味のあるものかどうか心許ない。隣の中学と一緒の問題を作ることも、あちこちの学校からいろいろデータを持ち寄って検討会をすることも、いきさつ上管理職としては禁止せざるを得ないから、全くの五里霧中である。しかも「偏差値」は使っちゃいけないんだからね。出てくるデータなんて、ほんとお笑いぐさ程度のものしかあるわけない。たとえば、学年全体で200人ぐらいの3年生がいる首都圏の普通の中学校で、公立高校一校あたりの第一希望の人数はせいぜい7~10人ぐらい、ほとんどが5人以下であろう。とてもじゃないが各高校ごとの、信頼できる基準を設定することなんか不可能だ。年を追うごとに乏しくなるデータ。刻々と変化する私立高校の学力水準。「絶対評価の導入」によって高校側からの信用も地に墜ちた調査書の数字。さらに、「行ける高校」から「行きたい高校」へ!という無責任なキャッチコピーに基づく、中学教員へのお上からの圧力。とてもじゃないが、三者面談なんかで保護者が納得できるような資料を用意するなんて、無理に決まっている。

 結局どうなったかといえば、「高校進学指導は塾でやってもらえ!」と言い放つ教員までが現れる事態となったのだ。ま、そこまでは口に出しては言わないまでも、今やほとんどの3年の担任は、自分の過去の経験だけを頼りに生徒や親と話をするしかなく、塾に行ってない変な(あるいは、はっきり言って貧乏な家の)生徒に対して自信を持って進学についてのアドバイスをすることは出来ない。しかも担任の「進学指導の経験」なんて想像以上に乏しいのだ。何しろ、自分の番がめぐってくるのが大概3年に1度なんだからな。3年前の古い印象だけが頼りだなんて、保護者にしてみれば考えたくもないわな。(塾の先生は毎年やってるでしょ?)
そして、三者面談で保護者が当然聞いてくる質問、
「ウチの子はどこの高校だったら学力的にふさわしいですか」という問いには答えることはもちろん出来ないし、上からの指導で、答えることを禁じられている。そして、
「学校見学や説明会などに出向いて、自分にふさわしい学校を自分で探し出してください。」
と答えるよう、強要されている。これは言ってる教員だって無責任きわまりない、と思っているし、親にしてみれば
「ウチの子の担任はこんな大事なことだというのに真面目にやってくれていない!」
あるいは
「中学校じゃ何も教えてくれない」
とハッキリと感じるであろう。さらに
「どこの高校ならウチの子が行けるんですか?!」
とさらに追及してくる保護者も毎年必ずいるのだが、それに対しても
「行ける高校ではなくて行きたい高校、ですっ。」
と答えるわけだ。状況がわかってない保護者にしてみれば、職務放棄か!と怒鳴りつけたいぐらいである。だいたい、(日頃保護者会なんかに出てこなくてあまり関心がない親なんか特に)自分の足で高校を探してこい、といきなり言われるわけだから、面食らう、というか突然背中に火を放たれた気になるではないか。だが、それが現実である。これで、頼みの綱は塾だ!と思わない人間がいたら、かなりの変わり者である。

 というわけで、この騒ぎは進路指導の意味というか、もっと言っちゃえば
公立中学校の存在価値そのものまでもが相対的に軽くなる、という重大な結末を招いたが、現場のそういう絶望的な皮膚感覚って、絶対にお偉方には伝わらないだろうな。(管理職試験も昨今はすごい高倍率なので、上ににらまれるようなことを言ったりやったりする奴は絶対合格しない、と一般的に思われてるから、管理職ねらってる教員はみんなイエスマンばっかりだ。)

今や、生徒がそれぞれ自分の進学先を決めるときには、「会場テスト」と「塾」の護送船団方式で盤石の仕切り、中学校の出る幕なんかない(はっきりとそうおっしゃる生徒・保護者もいらっしゃる)。もちろん、やりようによっては方策は他にもあるが、いずれにせよ流れに乗り損ねた親は子供に悲しい思いをさせることになる。塾は私立高校と提携し、独自の(低めの)合格基準をもらっているところまであるというが、(そして状況証拠は嫌と言うほど見せつけられているが)真偽のほどは中学校には伝わってこない。そんなチャンネルがないからな。何やってるかなんて、わかりゃしねぇさ。時たま、自分の子供が受験生になった教員が、その実態の一部を認識するのみだ。

 そして、もう十何年も前から中学校の進路指導の三者面談では、生徒が申し出てくる受験先を追認するだけである。雲の上の方ではそういうのは「行ける高校ではなく行きたい高校」というスローガンが達成されたことになるのだろうが、実際は「偏差値による合格可能性」に、生徒たちは以前よりズ~ッときつく雁字搦めに縛られているのさ。そして、そうじゃないヤツは、家庭もろともこの日本の社会での負け組が決定している落ちこぼればっかりだ。



スポンサーサイト



テーマ:高校受験 - ジャンル:学校・教育

教育とは無駄をすることと見つけたり

 俺が教師になってすぐは驚きの連続であったが、「資材の無駄使い」というのもその中のひとつに数えられる。
 
 昨今の危機的な国家財政の中で、まさに道路以外の何もかもが縮小傾向にある。まあ、御政道向きの話は置いとくにしても、地方自治体もひたすら倹約倹約の大合唱で、学校はますます身動きが取れなくなってきた観がある。3~4クラス並行の中学校で、年間の備品購入費が全教科領域その他ぜ~んぶ合わせて130万です、なんて言われると、タメ息しか出ませんね。
 だが、考えてみると学校ってなんと多くの資材が無駄にされていることか。極端なところを言えば、荒れた学校なんかは、窓ガラスをはじめとして何でもかんでもぶち壊される。盗まれる。その修理代が学校を通り越して自治体の教育予算までをも圧迫する。そうでなくても、エネルギーの有り余っている中学生は行動も荒っぽく、10年もつはずの物が1年しか持たない、なんてのもよくある話だ。目に見えるものばかりでなく、特別教室に移動したあとの普通教室の電気なんかも付けっぱなし、どうかすれば水道の水も出しっぱなし。

 しかし…教材の消耗はもっとすごい。
 まず、はじめに勤務した学校では吹奏楽部の生徒が「譜面台がない、譜面台がない」としょっちゅう騒いでいるのに、準備室に譜面台がでかい段ボール箱いっぱいに入れてある。顧問によるとそれは壊れたので捨てる、というのだ。で俺がその箱をひっくり返して使える部品をかき集めて組んでみると20余本もの使える譜面台が誕生した。その他にも、メトロノームの残骸が山のようにある(こっちは修理費用より新品の方が圧倒的に安いので捨てるほかない)など、普通なら何十年でも使いそうなものが大量に壊れているのを見て、なんて勿体ない!!と呆れたものだった。そんなのが音楽に限らずそこここにある。
 そして何と言っても、紙!ざら紙から厚紙・ラシャ紙まで何でもかんでもクズにする。4~5クラス分百数十枚の教材を印刷した直後にミスを見つけてもう一回刷り直し、なんてのは日常茶飯事、お知らせだろうが課題だろうが、何でもかんでも印刷して生徒に渡し、生徒はそれを処理しきれなくなって机の中はゴチャゴチャにごった返す。教材として配る様々なプリントだって、昔と違って乱発してる感じだ。そうしないと授業が効率的に進まないからな。だがそれだって「予備」のつもりで数枚ずつ多めに刷るだけでもちょっとチリも積もればたちまち山となる。掲示物を作るときも、彼らはアッと思った瞬間には大きな模造紙に無造作にマジックで書き始めて失敗する。そして掲示物を作っても期間が過ぎればゴミとなるし、発表会が終わればゴミでしかないし、未完成のまま放置されるものだって少なくない。マジックも使い方が乱暴なのでペン先が簡単につぶれ、放置してすぐ乾いて使えなくなる。
 
 美術の作品も技術家庭の作品も、提出したものが採点されて戻ってくればそれはもうゴミ。余って使わなかった資材も新しいまま大量にゴミ。硬筆の練習も書き初めの練習も1時間授業やればゴミ箱はクズでいっぱい。余った半紙も放っておけば誰も使わなくて終了。チョークも黒板消しも清掃用具も、まるでうたかたの泡のように消えて無くなる。ビデオデッキもCDラジカセも普通何年ももつ物が半年か1年そこらで故障して果てる。

だが、これは当たり前と考えなければいけないのかもしれない。教育というのは「無駄をすること」そのものなのだ。(その最たるものがジェット旅客機の操縦であろうか。考え方によってはあのでかい図体を、客を乗せずに空へ浮かばせるなんて、想像を絶する無駄、とも言えるが、新人が練習しなくていいわけないし、まさか実際の営業運行の中で見習いに操縦させるわけにもいくまい。)肉食動物の子供がじゃれ合ってエネルギーを消費するのも、えさをとるための訓練というわけだ。

それほどまでに資源を無駄にすることに対して、俺たち教員はやっぱり鈍感になってはいけないなぁ、と思うことが最近多くなった。紙をゴシャゴシャとクズにするその瞬間に、ちらっとでも、パルプを採取するために切り倒される森や林があるということを忘れないでいたいものだ。

テーマ:教育 - ジャンル:学校・教育