最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

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推薦入試っていかがわしくない?その2

 時は流れ、誰も想像できなかった速さで少子化が進み、今や高校も大学も全入時代。大学の定員割れは珍しいことでもなんでもなくなってしまった。推薦入試の存在意義も全く変わったのではないだろうか。
 異変が始まったのはいつ頃だったろうか。業者テストの資料の中で、偏差値40あれば楽勝に入れる「底辺高校」の入学者の中に、一人か二人だけ偏差値55とか60の奴が混じる、という現象が見られはじめた。つまり、そういう高校でさえも取得し始めた「推薦入試」の枠をねらっているのだ、ということは容易に想像できた。だがどうなのであろうか、人間は環境に左右される、たいして強くもない動物のはずなのだが、その生徒たちはプライドを持って3年間自分を保っていけるものなのであろうか。実際、生徒を見ていて感じることだが、偏差値で60の生徒と40の生徒では、「種」として別の生物と言っていいくらい脳みその作りが違っているのである。そして、そんな「掃き溜めに鶴」どもは、存在自体その学校の「フツー」の生徒たちに対して迷惑ではなかったのか。

 だが、今や状況はもっとどうしようもなくなっている。凋落したかつての名門大学の話はたくさん聞く。日東駒専あたりでさえ推薦枠をバンバン出しているみたいだし、MARCHレベルでもなんだか「え、何であんな子が?」というようなフツーの子がフツーに入っているようだ。受験戦争なんてとっくの昔に過去のもの。一部の一流校を除いては誰も、真剣に勉強して、狭き門をくぐり抜けて、栄冠を勝ち取って、なんてツライ思いはしていないようなのだ。

 もちろん高校入試もヌルイ。とにかく、会場テストの偏差値、といっても結果がまず第一にある。偏差値を少しでも上げよう、自分の実力を高めてちょっとでもレベルの高い高校を高望みしよう、なんてのは今では絶滅危惧種。何しろ選びさえしなきゃ、不登校だろうが不良だろうが高校なんて必ず入学できるからな。彼ら中学生が考えることは1にも2にも「自分の偏差値で入れる高校」。無理はしない、いやなことはしない、苦しいことはしない、友達と一緒でいいよ。つまり、15~6年前にせっかく文科省が教育現場から「偏差値」という言葉を追放したというのに、今や生徒はかつてよりずっと強く、しかもまちがった意味で偏差値に呪縛されているということになる。
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中学校の法則
『教育現場で抱える問題は、雲の上の方で「なんとかしなきゃね」と言って動き出すと、その瞬間に猛烈に悪化する』(黙っててくれよ!)




つづく
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推薦入試っていかがわしくない?

 高校にしても大学にしても、「推薦入試」とか「OA」とか入試の方法がいろいろある。もとはといえば、「受験戦争を緩和しましょう」というお題目があったようだ。
 確かに一時、大学受験といえば1点を争う熾烈な戦いに参加して他のライバルたちとしのぎを削ることを意味していた。俺が高校生の時だって、どうってことないボンクラどもでもけっこう英単語何千個覚えましたの、数Ⅲの微積がどうですの、と今考えればすごい高度なことばかり言いあっていた。そして、国立大の赤本なんか持って歩いてるヤツなんかはその大学の名前がそのまま渾名になったりするなど、互いにプレッシャーを掛け合っていたものだ(国立も一期校・二期校なんていってた頃よ。受験生ブルースなんて歌が流行ったりしてね。)そして、その中であまりにも「無意味な」知識や受験技術ばっかりに青春を「灰色に」染めてがんばらなければならない子供たちが、あまりにも「可哀想」ではないか、という論議が発生したのであった。
 高校受験にしても略同型で、東大に入りやすい高校を目指しての異常な受験戦争を制したあげくに発生した「落ちこぼれ応援事件(★)」なんかに象徴される、ゆがんだ人間性が問題視されるようにもなった。

★いつの頃かは忘れたが(たぶん昭和50年代)、甲子園を目指す高校野球の東京都予選で、麻布高校の生徒・応援団が負け戦の腹いせに相手校に対して「落ちこぼれっ!落ちこぼれっ!」と声を合わせてヤジったため、相手校の選手・応援の生徒らが大いに傷ついた、という事件。しかもこれがマスコミに取り上げられると、麻布高校の在校生や卒業生の中には「何が悪いのか」「これが麻布高校のいい校風だ」などと居直った奴がけっこういて、世間から余計に顰蹙を買った。俺の認識するところでは、これをきっかけとして、公の場では「落ちこぼれ」という言葉に対して「言葉狩り」が行われるようになった。

 確かに、家の手伝いはしません、友達なんか踏み台です、人間性なんて関係ありません、受験を制して一流の高校大学に入れたヤツだけが人生の勝利者です、なんていう価値観が蔓延してしまう(というか、その一つだけで硬直してしまう)のはどう考えてもいいことではない。必要十分な実力を保持している生徒はガリ勉なんかしなくても入学試験をパスさせてあげましょう、という発想が生まれ「推薦入試」につながったことは想像に難くない。

しかし。



(つづく)

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礼:そして「機能」としての教師

 授業の始まりと終わりには「礼」をする。日直か号令係か学級委員だかはそのクラスなり学年・学校ごとで違うようだが、とにかく「起立」「気をつけ(「起立」がそのまま「気をつけ」を兼ねているから言わせない、とおっしゃる先生もいる)!」「礼!」。で、学校によって、生徒が無言でお辞儀をして座る、「お願いします!」と言う、係が「着席」と言うまで座らない、など挙げていってみるとこんなことでも結構バリエーションは豊富だ。さらに、きちんとした先生か、そういうことに無頓着な先生、指導力の弱い(なめられてる)先生かどうかで生徒の方も態度を変えたりするから、たったこれだけの風景でも授業ごとに変化があるのかも知れない。

 俺の場合は、年度当初に生徒に授業の始まりと終わりの「礼」について必ず申し渡す。それは、
「俺がお辞儀をして頭を上げるまで、君らは動いてはいけない。」
ということだ。その理由はたったひとつ。
目上がお辞儀をしている最中に目下がそっぽ向いたりウロウロするのは失礼だから。
まあ、こういうことを言うと必ず、
「そんなことをさせるほどオマエは偉いんか」
という風に揶揄する奴らがいる。教育のなんたるかをわかっていない「亡国の徒」と言うべき輩だな。あのね、教員が偉いなんてこと、もともとあるわけないだろ?ましてや、(何度も言うが)俺は一家を養うた・め・に・教員をしている「デモシカ教師」だ。ひとつも偉くなんかないよ。だが、給料もらっている以上は、教員として「機能」しないとね。

 生徒にも繰り返し説明するのだが、俺はそうやってたくさんの生徒の尊敬を集めたりかしずいてもらったりされなきゃいけないような「偉い人」でも「身分の高い人」でもない。じゃ、何でそんな俺に対して、偉い人にするようにちゃんとお辞儀なんかしなきゃいけないのか。それは、いざ本当にちゃんとあいさつしなきゃいけないときに、ちゃんとお辞儀をしなきゃいけないときに、ボロを出さないため、に他ならない。俺が「なんだコイツ、失礼な!」と思うということは、すなわち失礼な態度なのだ。生徒としては、そういう部分は「引っ込める」訓練を日頃からしておかなければ、いずれ困る時がきっと来る。だから、(ちっとも偉くない)俺に対してさえも不快感を感じさせてはいけない。何しろ、あくまでも建前上とはいえ俺は「目上」だからな。目上に対して「失礼な態度」をとってはいけないのだ。

 世の中には、自分は偉いんだと思いこんでる勘違いバカ教師がいるのは確かである。授業の時なんか生徒が一斉にお辞儀をしてくれるからな。場合によってはそういう心理状態にならないと自分でバランスが取れないのかも知れない。だが、普通はそんなことはないであろう。生徒が教師であるところの自分に対して、師弟としての礼を尽くす姿を見て、「罪の意識」を感じない奴は「カタワ」というべきだ。「俺はコイツらにどれほどのことがしてやれたのだろうか」「これ以上のことができたんではなかろうか」と心の片隅でほんのちょこっとも感じないような教師はすぐに辞表を書くべきだ、と言えばたいていの教師は賛成してくれるであろう。しかし!

 そのことと、生徒にきちんと礼を尽くさせることは全く次元の違う問題である。自分は偉くなくたって、あたかも偉い人のように振る舞い、かつ生徒にもそのように扱ってもらうよう、生徒に(断固として)要求しなけりゃいけない。そして、そこんところが、教師じゃない人が教師に対して感じる一番大きな違和感なんだと思う。
 だが、現代日本においていったいどこに、子供に意図的に礼儀作法を身につけさせるモーメントがあるというのか。大人を敬う気持ち、家庭の外での言葉遣いやマナー、先輩後輩のつきあい方など、様々な意味での処世術の骨組みを植え付けるのはいつ、誰が、どこで、どうやってやってるの?少なくとも言いたいのは、「おとーさんおかーさんがそれをちゃんとできるのか?あるいはやってるヒマあるのか?!」ということである。(実際、新入社員が一応使い物になるまで、かつては数ヶ月ですんだものが今じゃ30才近くまでかかるというではないか。おかしいだろ、そんな世の中。)
 そして、そのモーメントのひとつとして教師という「機能」が存在する、と俺は思う。だが実際そうであるならば教師はフツーの人間ではありえない。独特なものの見方や行動をする「教師という人種」でなければならないのだ。必要とあらば、大勢の生徒に一糸乱れずお辞儀をさせ、物差しを持って女子のスカートを測り、まるっきり非現実的な道徳をもっともらしく語り、黒スプレーを持って茶髪のガキどもを追いかけ回し、デカイ声で校歌を歌わせ、一瞬にして笑顔を激怒の表情に変えることができる(高血圧が職業病)異常な人種、それが「機能」としての教師だ!!おかしいというなら陰で笑えばいいではないか。だがアンタのできないことをやってるプロ集団なんだから、自分の子の前で文句を言うのはやめてくれよな!

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中学生の法則?

 またひとつ、思い出したぞ、中学生の法則。これはクラス担任をすれば実感するであろう。

その6:教室にガムテープを置きっぱなしにしてしまうと、中学生が無駄なことをして使い切る。
その7:セロテープでも同じ。

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