最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

「国語力」以前の問題

 期末試験の真っ最中だ。今日ウチの学校の2年生で国語の試験があって、担当の先生が、採点しながらいろいろ言っている。

 今回の問題の中に、「修学旅行(10日ほど前に帰ってきた)で自分が得たことを書きなさい」という作文の問題を出したところ、全然ダメだ、というのである。ほとんどの生徒が、「二条城についての蘊蓄を延々と書く」「銀閣寺がなぜ銀閣寺というのか、ということについてエピソードを展開する」など、一点集中の文章を書いて、さっぱり出題の意図にそった解答がない、という。中には、「1日目は新幹線で~~。それからどこへ行って~~。二日目は~。」なんてのもあって、こんなに国語力がないのではこれからどうなっちゃうんだろう、と。
 ところが、2年の担任からは意外な反応が。
「あの子たちは小学校の時からそういう風にやらされてきちゃってるのよ。」
つまり、修学旅行なり調べ学習の発表会なりにおいて、全体を見ずに自分の割り当てられた「対象物」だけをとにかく突っついて、その他のものには興味がない、ということなんだな。だから、全体的に総括して、自分がどう思ったかとか、それこそ心にどんな感銘があったのか、とかそういうことは表現しようにも無理らしいのだ。

 結局、結論はどうなんだ、といわれてもうまく言えないのだが、「国語力」というか文章を書く力、読んでそこから感じたり想像したりする力も大事なんだが、もっと根本的な感性っていうのか好奇心っていうのかな、何かもっともっと大事な、数値に表れない力が、またしても育てられないままに置き去りにされているのを見つけてしまったような気がしたのは、端で見ていた俺だけであろうか。
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絶対評価と相対評価

 平成に入って数年後、相対評価は過去のものとなった(はずである)。

 相対評価は、学級なり学年なりの順位をもとにする評価で、本人がどんなに優秀でも他の奴らがもっと優秀だったらよい点数にならない。よい評価を得ようとすれば、生徒同士の凄惨な戦いが惹起される(なんてオーバー?)。特に、高校入試の内申書では厳密に人数まで決められていたので、自分の生徒を高く売り込みたい担任、つまり真っ当な教師を嘆かせていたものであった。絶対評価のほうは、ちゃんとできていればみんな◎なのだから、優秀なヤツは優秀としてちゃんと評価できる一方、「切磋琢磨」というフィールドは演出しにくいかもしれない。それに、習得内容のハードルを低くすれば5や4のインフレを起こすこともできるから、今や高校では内申書の数字なんかほとんどあてにしなくなってしまったらしい。私立では専ら会場テストの成績で合否を決めてるし、公立では当日の学力検査を重視している。しかも、「関心意欲態度」が評価基準として幅をきかせてきた結果、今や生徒の間でさえも、オール5をとるような級友は「おべっか使いの上手なヤツ」「大人の顔色見るだけのヤツ」として軽蔑されている始末なのである。実際、中の上ぐらいの能力の生徒ならやり方によっては可能だからな。

 ところが、絶対評価が導入されて以来、ずっと俺たち兵隊にプレッシャーをかけてくる圧力がある。それは、通信簿の評価:54321それぞれの人数を報告せよ、という管理職からの要求だ。これには様々な意味がある。まず、5の人数が多すぎた場合、「評価の基準が甘すぎる」ということになる。1の人数が多い場合、「教え方が悪い」「評価基準の決め方が生徒の実態に合っていない」。そして常に問題にされることは「いちいちの単元でどんな評価基準を設定しているのか」。
 これは、よい方に考えれば、俺たちの授業の内容や技術、生徒の実態を掌握する感覚の鋭さなど、いってみれば「教師力」の向上に直結する。だが、極端な話、もし授業の技量がメチャメチャ高い教師がいて、担当している生徒がみんな優秀になっちゃったからといって、全員に5をつけると、これは「教え方が上手」ということには絶対にならなくて、(上からの)教員への評価が好ましからざるものになってしまう。(現実に音楽なんかではそれに近い状態が現出することがあるし、中1の1学期の英語なんかもそんな感じになりやすい。)その場合、急遽「評価の基準」を極端に厳しいものにしなければならなくなり、これは生徒に対して後出しジャンケンをするようなもので、はっきり言って卑怯だ。最初から生徒を生かさず殺さず「ほどほどに」できる、という状態にしておくのがベスト、ということか?それに、生徒集団の能力に合わせて基準を設定したのでは「絶対評価」ではないじゃないか!
 さらに、ウチの市では、校長会が市内すべての中学校での3年生の54321の割合を算出して表にした資料なんかを作っているのだが、これは一体どういうつもりで作成されるのか。一応高校受験の資料なんかに使えそうなのはわかるが、実際には職員会議なんかで、「評価のやり方を考え直してくれ!」なんていわれ方をする教科もある。だが、評価は生徒の実態に応じてつけるものだし、集団の状態によってけっこうあやふやに変化するものだ。それなのに、結局のところ、
正規分布曲線になるように評価をつけてほしいという、俺のようなバカでさえも首をひねらざるをえない意図があるみたいなのだ。何でなんだろう。だって絶対評価でしょ?全然趣旨から外れているんじゃないのか。

 それとも、最近特に顕著になってきた「フタコブラクダ現象」を意識しているのかも知れないが、そうなるとコトは評価だけの問題ではなく、落ちこぼれた奴らの補習など、別の方向へも拡がっていく。(ウチの校長もそこまで言及することが多い。)そしてこれは容易なことではない。何しろ、フタコブラクダ現象とは、家庭の、教育に対する熱心さの度合いが端的に表れてきたものといってもいい、根深い問題だからな。

 そういうわけで、絶対評価はかなりやっかいな問題を孕んだまま進められてきた(と思う)。やる気があるかないか(関心・意欲・態度)なんて、神ならぬ人間に完全に評価できるわけなんか絶対にない。何しろ、おとなしい生徒は「おとなしい」という、ただそれだけでやる気がないように見えるからな。A先生とB先生で見方が違ったからといって、誰も批難するわけにいかない。その他の項目についても、どれほど事前に申し合わせをしてみたところで教師によって学校によって到達度の基準にブレが出るのは当たり前だ。しかもそんな申し合わせなんてそもそも存在しないじゃないか。「学習指導要領」という大雑把な書き物だけが唯一の手がかりだ。芸術教科に至っては、評価から「教師の好み・主観」という要素を排除することは絶対に不可能だ。独特の、といえば聞こえはいいがおかしな課題や提出物で訳のわからない評価をするヤツも、これまで俺が出会った教師の中にけっこう散見された。(書き初めの練習を千枚提出したら無条件で国語を5にするとかね)
 そして最終的にはどうしても評価が甘くなる教師が現れる。なんと言ったって目の前の生徒にいい顔したいからな。内申書の成績がオール3といったらけっこう出来の悪い生徒、というのが実際じゃないか?で、そんなのおかしいから、といって上から圧力がかかる。それじゃ、といって真面目に取り組んで評価を厳しくすれば自分の生徒が高校入試で不利になる。

 本当に、こんな評価に誰がした、じゃないが、振り回される生徒もいい迷惑というものであろう。相対評価と絶対評価、どちらが本当に生徒を伸ばすことになるのか、もう一度考え直してもいいかもしれないな。(どっち、と決めること自体まちがっている、とおっしゃる向きもあるだろうが…)

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校歌の伴奏

 普通、どこの小学校や中学校にも校歌はあると思う。学校行事などの時に生徒が力なく斉唱して、「声が小さい…」と管理職が憮然とし、体育の教師が怒鳴り、音楽の教師が肩身の狭い思いをする、というアレである。伴奏は吹奏楽でやる場合もあるが、たいていはピアノであろう。問題はそのピアノ伴奏の楽譜なのであるが…。

 これまであちこちの中学校に赴任したり、吹奏楽部の訪問演奏か何かのために行く先々の小学校の校歌を編曲したりして、様々な校歌に出会ってきたのだが、実にトンデモナイあり得ない楽譜が多いのは一体どういうシカケになっているのだろうか。
 校歌の作詞作曲はけっこう高名な先生にお願いすることが多い(ようだ)。日本の校歌のスタイルは山田耕筰が確立したなんて言われているが、実際これまでも平井康三郎や中田喜直などのビッグネームに出っくわしたこともあった。ところがピアノ伴奏譜に関して言えば、妙に乱雑な楽譜が多いのだ。出鱈目なコード進行。ベースとメロディが同じ音で進行する「連続8度」という反則。異様に回りにくかったり飛び跳ねたりする変な指使い。必然性なく重苦しく重ねた和音。がんばって弾きこなす先生や児童生徒の苦労にも感心するが、そういう変な楽譜に苦闘している人たちや、行事なんかで聴いて違和感を持った人なんかが「もうちょっと何とかならないの?」と疑問を持ってほしい、と思うのは俺が高望みしすぎだろうか。

 実は、俺の家内がかつて(20年以上前)、ある新設小学校の校歌のピアノ伴奏譜を作ったことがある、というのである。その小学校の、当時の校長は家内の父親であった。そのとき家内は音大の学生。「オマエ音大行ってるんだからこのくらいできるだろ」と押しつけられたそうだ。しかし、ちょっと想像すればわかるように、音大生といっても誰もが音楽のあらゆる方面に通暁しているわけではない。様々な専攻科にわかれていて、たいていは「専攻バカ」なのだ。
 理論は一通りしか教わらず、作曲科のように音符をあやつる技術など皆無の「声楽専攻」であるところの家内が書いた伴奏譜は、今でもその小学校で大切に受け継がれていることであろう。「私が書いた楽譜は誰でも弾ける易しい(優しい)ヤツだよ!」と本人は言うが、それではもし、生半可に音符をいじくれる生意気野郎が伴奏を書けばどうなるか…。俺は想像したくもないね。迷惑千万である。
 メロディーの出自はともかく、ピアノ伴奏楽譜の実態なんてそんなモンではないのだろうか。特に、児童生徒の急増した昭和50年代あたりに全国で多数の小中学校が新設されたが、そういう学校の校歌を見るとけっこう粗製濫造のきらいがある。どんなことが現場で行われてきたのか、今となっては闇の中だが…。

 それなりの作曲家が自分の書いたメロディーに自らピアノ伴奏をつけたものは、すぐわかる。和音の進行がくどくなく、多少洒落ていて、余計な音が書いてないので聞いていてもさわやかで心地よく、次にどうなるという必然としての予想がつくのでピアノを弾いても気持ちがいい。第一、メロディーが望んでいる「内容」というか「心」にちゃんとフィットしている。
 問題はそうではない劣悪な楽譜である。弾いて苦しく聞いて耳障り。子供の情操にどんな影響を与えるのか。子供時代に変な音楽をそのまま聴かされたりやらされて、変なセンスを身につけさせられたのでは人生豊かじゃないね。それなのに、せっかく指摘してやっても「今までこれでやってきたんだから」とか「何の何某大先生が作曲してくださったものなんだから」と形式主義に凝り固まってそのままやり続けようとする、低劣で良心の欠如した音楽専科の教師もいるのだ。どうも小学校の女性教師の中には、それまでの間違いを正すことよりも自分のプライドを優先する傾向が強い方がけっこういらっしゃる、ということだな。まことに不幸なことである。ちなみに俺は、そんな楽譜は自分のやりやすいように適当に改竄してしまうが、それでトラブルになったことなんか全くない。
 児童生徒の情操教育に対して用意される教材は、常に細心の注意を払いたいもののはずだ。たかが校歌の伴奏だってその教材のひとつなのだから、もうちょっとチェックの目を注いでもいいのではないか。

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「教育困難校」の憂鬱

 これは以前俺が一泊二日の人間ドックにいったときに、同室になったある県立の定時制高校の先生が話していたことである。(俺は中学の教員だから)当然入試の話になった。

 ある年、知的障害の生徒が入学を希望してきた。送り手側の中学校もさすがにヤバいと考えていて、事前に校長を通して相談があったらしい。その生徒は「勉強が全然できない」というレベルは通り越していて、自分の名前さえも書けないというのだ。それでもとにかく保護者共々高校進学を希望しているので、何とかしてほしい、何とかしましょう、ということで話が進んできたもののようだ。だが、学力検査の答案用紙に名前も書けない、というのではどうしようもない。下々でも(疑問を持ちつつも)いろいろ連絡を取り合って、受験番号も0と1(マルと棒、というべきか)しか使わないものを彼のために特別に用意し、どうひっくり返っても試験を受けさえすれば大丈夫、という態勢を整えたのだった。
 ところが、いざ本番の時、件の生徒はその受験番号さえも書けなかったのだ。つまり全くの白紙。そして当然、合否判定の会議で問題になった。管理職サイドとしては(県からのお達しもあって)定員割れの高校だから何としても合格させなければいけないと言うし、兵隊の方は、いくらそんなお達しがあったからといって、ここまでできない生徒を受け入れても本人にとっても学校にとっても一体何の意味があるのか、ということで不合格を強硬に主張したらしい。激論が戦わされること2時間、やっとの事で校長を説き伏せ、不合格にすることを承知させたという。ところが、今度は校長が県教委に連絡、内容を説明し、電話先の人物を説得し不合格を出すのを承知させるのにさらに1時間かかったというのである。
 その先生は、「とにかく何のためにここまでして県が定員を満たすことにこだわるのか、まったく理解できません」とため息混じりに言っていた。俺も、そこまでしてでも合格させなきゃいけないという内幕を知ってビックリしたものだった。
 だが実際、小学校で落ちこぼれ、中学校の内容も実際に使えるかどうかは別として半分ぐらいしか理解できず、学年が上がるにつれて何をやっているのかさっぱりわからなくなるような生徒たちが、高校のより高度な学習内容をどうやって理解するのか、というよりそれを身につけることで彼らの将来にどんな意味があるのか。よく話されることだが、「教育困難校」といわれる高校ではまず数学で掛け算九九、英語ではアルファベットから始めるのだ。上位校で何から始めるかを考えてみれば、同じ「高等学校」とひとくくりにするのは無理!としか言いようがない。
 この他にも、どうにもならない中学生を、何しろ定員割れの高校は受け入れなければならない、という状態はかなり困った現象を引き起こしてきた。問題行動おこしまくりの奴や不登校の生徒でもどんどん高校に進学する。まじめにやってる奴らはそれを横目で見ながら黙々と授業を受けてはいるが、何かの時には「まじめにやってるのが馬鹿みたいだよね」なんてつぶやく(三者面談なんかで保護者がそうおっしゃる場合だってある)。
また、中学校でさえもハジケている不良どもが、高校に行ったらああもしたい、こうもしたい、と「夢」をふくらませて入っていくんだから、高校の方だってたまったもんじゃない。そして、たいていの場合そいつらはいとも簡単に中退して人材の不良債権と化してしまうのだ。

 だが目出度いことに、うちの県では数年前からこの流れに歯止めがかかったようなのである。ウチの校長が以前いた中学にどうにもならない不良が10人以上いて、ソイツらが定員割れ(それも大幅に)の高校に志願したときに、事前に「コイツらを合格させないでくれ!」と申し入れたところ、ちゃんと不合格にしてくれたというのだ。その話を聞いたとき俺は進路指導主事だったのだが、初耳だったので驚いて聞き直したが、最近方針が変わったらしい。まあ、少子化も進行し定員定員とこだわってばかりもいられなくなったのかも知れないが、県教委も時にはいいことをするモンだな、と感心した。

 閑話休題、数年前、ある「教育困難校」に進学した高校2年生の女子が中学校を訪ねてきたことがある。
「あたしね、今学年でトップなんだよ!」
「なに~~~?そんなのありえないでしょ。」
「ホントだよ!(ニコニコしつつ話すその態度で本当であることが知れる。)それでね、1年に入学したときに7クラスあったんだけど、2年になってクラス替えしたら5クラスになってたんだよ!」
「へぇぇぇ~~~!そんなにやめちまうのか?」
その生徒は中学校時代はトラブルメーカーの最右翼だった。頭悪いのに自己顕示欲強くてすぐバレる工作を陰に回って繰り返し、女子の人間関係はコイツ一人のためにいつでも大混乱、という困った生徒だったのに、その頃の険のある表情はすっかり落ち着いてゆとりのある雰囲気。あんなクソガキをこんな風に変身させてしまうんだから、高校の先生はすごい!しかもクラスが2つも減ってしまうほどのすったもんだを繰り返しながらよくぞ、とそのときはしみじみと「教育困難校」の先生方に頭の下がる思いであった。

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進路指導の悔恨

 そもそも「進路指導」は生徒を高校に行かせるための指導ではない。それはわかってはいる。重々わかっているのだが、いつの間にか
目的は高校進学!!」になってしまうことがままあるのだ。そして、その大きなムーブメントに巻き込まれて無駄に高校に進学してしまう生徒の何と多いことか。
 俺が担任として受け持った3年のクラスの中にも、必ずそういう生徒が一人か二人はいて頭痛の種になっていたものなのだが、どうすればよかったのか…。

事例1
 かなり昔なので細かいディテールは覚えていないが、とにかくその生徒は勉強が苦手で嫌い。細かい悪さはするけど一応不良というわけではなく、十分に普通の生徒の部類であった。だが、とにかく勉強がいやで低学力(まだ追放されていなかった校内の業者テストの偏差値も36~7といったところ、つまりほぼどん底)。口癖は「めんどくせー」「やりたくねー」「高校なんか行きたくねー」。というわけで、本人も秋の三者面談の折に一旦は「就職」という方針を定めた。だが、学年主任(女性)から
「何を言ってるの!高校に行かせなさい!」という圧力が俺にかかり、俺としても半ば仕方なく、本人に限らず保護者にまでも陰に陽に高校進学圧力をかけまくったので、彼は不承不承受検(県公立校では受ではなく受)を決意し、近所の工業高校に進学した。
 だが、その学年を卒業させ、新しい学級も軌道に乗ってきたと思われる6月、その生徒は中学校に俺を訪ねてきた。
「先生、俺高校やめちゃったぜ!」
「え?!(もうかよ?!まだ2ヶ月もたってないじゃん!)」
「今仕事してんだ。工務店で。」
それ以上のことは覚えていないのだが、ただただその、近況を得意げに報告する生徒(だった奴)の生き生きした雰囲気と明るい笑顔が、ものすごく強く俺の印象に残ったのだ。コイツの、こんなにも屈託のない晴れ晴れとした笑顔を俺はそれまでに見たことがなかったじゃないか?!!そのとき何の脈絡もなく俺は、(ああ、高校なんか行かせるんじゃなかった!!高校進学はコイツにふさわしい進路じゃなかったんだ…)と強く思ったのであった。だが、その頃の俺はペーペーで、初めて受け持った3年生。自信満々に「高校、行・か・せ・な・さいっ!」と宣う学年主任のおばちゃん先生と違う方針を立てようなんて毛ほども思わなかった。

その後、3年生を担任するたびに脳裏にそいつの顔が去来する。そして似たような奴に、内心(コイツは高校なんか行く必要ないのにな…)と思いつつも、親の願いやら友達関係やらのまわりに流されて何となく進学するおバカ生徒の片棒を担ぎ、何人の無意味な進学を見送っていったことか。

事例2
 その中でも最新の奴は、いかにもジャイアンって感じの体のでかいイジメっ子にして、親分肌で面倒見がいいという二面性を持った男子生徒である。根はいいやつなんだけどなぁ…。弱っちい奴や物静かな奴は仲間と寄ってたかって弄っちゃうがそれがイジメにつながるという想像力は欠如している一方で、こっちが生徒にいろいろと文句を言ったりすると(それが自分のことでなくても)食ってかかってくる、という扱いづらい奴だった。もともとの頭はそれほど悪いわけではないのだが、やはり勉強がいやで学校はキライ。結局、学校というシステムの中では抱えきれない生徒なんだな。まあ俺としても、高校行かせないで就職でいいんじゃないでしょうか、ぐらいの気分でいた。しかも学年で最も親しい仲間の一人が絶対に就職するという決意のもと、断固として進学を拒んでいるのを見て、本人も2学期後半から激しく揺らぎはじめた。三者面談でも煮え切らない態度でこっちとしても時期的にヤバくなりそうになったので、「はやく態度をはっきりさせろ。口がなくなるぞ!」とせっついた。
 ところが、高校行きたくないのは本人だけ。まわりはみんな高校に行ってほしいのだ。親もそうだし、なんといっても学年主任が妙にしゃしゃり出てくる変な奴で、途中から勝手に担任を通り越して横槍を入れ始めた。俺は「(高校)行かせてもたぶん無駄ですよ」と言ってやったが、この主任は「まず行ってみて、辞めるのはそれからでも遅くない。高校はやっぱり無駄だった、なんてことは行ってから自分で(親共々)感じさせるべきだ。
中学校のせいで行かせてもらえなかった、と後で言われちゃまずい」という驚くべき?理屈を並べるのであった。結局、本人の希望するところの「美容師の資格」を取る上でも高卒の肩書きは有利だ、という母親の意見に従い、彼は高校受験を決意したのだった。そして、止めの私立受験で「どうせ行かないんだから」とまともに取り組まずに不合格になったりするなど周囲の気をもませつつも、地元の工業高校に進学した。
俺は最初っからこの話はうまくないなぁ~、というモードだったので、とにかく卒業期には何度も「オマエ、高校やめんじゃねーぞ」と念を押したが、それに対して本人は「やめねーよ。かあちゃんと約束したんだ。」という反応であった。で、どうにかなるのかな、と納得していたのに、やっぱりコイツ、一学期が終わる前にはもう辞めていた。そして、ガソリンスタンドでバイトしつつ中型二輪の免許を取り、今では仲間と400ccのバイクを転がしてその辺でとぐろを巻いているのだ。やっぱり本人が気が進まない進学はダメだな。やれやれ…。
 

 この他に知っているいくつかのケースも、ほとんど略同型である。結局のところ、親も中学校も親戚も友達も、この手の連中の人生をもてあそんでるんじゃないか、という気がする。本当に自分にふさわしいことが何なんだか判断する能力がない。というより、そういう判断力を身につけさせようとする大人が周辺にいないではないか。高校いってもどうせ勉強しないでケータイやりながら時間つぶしてる奴もいっぱいいる。就職させてもすぐ辞めちまう。中学を卒業後にやりたいこともなく、行きたい場所もなく、無気力にフラフラ遊んでる奴だって。そんなんだったらその若いエネルギーを労働生産力に回すべきなのに、そういう地に足の着いた確固たる思想を彼らに吹き込む(だけの自信を持った)大人がいない。大人がガキなんだ。肝が据わってない。お前はこうだ、と人一人の人生を規定するなんて怖いもんね。
つまり自分がどんな奴なんだかは、結局は自分が判断しなきゃいけないのに、「判断しなきゃいけない」という状況さえも見られる能力がないままに放置されていると言ってもいい。そして気づいたときにはニート、フリーター、ワーキングプア、パラサイトetc.への道が待っている。将来、年寄りがみんな死んじまったら、あとに残されたコイツらはどんな日本を作るんだろうか(とまではいかないにしても、どんな人生を送るのか)。

そして、たかが高校進学ひとつとっても、そこまで考えた上で進めていくのが「進路指導」じゃないんかい?という気もする。それとも中学校がそんなところまで面倒見る必要はないか…。

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子供が可愛くないのか?!狂った受験作戦

 今年度の高校入試が本番を迎えている。今週は県立高校の前期入試がある。みんな頑張ってほしいものだ。
ところが、本人の健闘をなんと思っているのか、(それなりに)必死で高みに登ろうとする我が子の足場を蹴飛ばす親がいるなんて信じられるか?!いるんだよ、そういう鬼畜が!

 県立が始まる前に私立の入試がある。私立一本の単願と県立滑り止めの併願にわかれる。県立が第一志望の生徒は私立の併願を受けるわけだ。その結果がもう出ている。合格した者はセーフティネットを張って県立に挑戦するはずなのだが、その前に合格した私立高校に県立の結果発表まで待ってもらう「延納願い」を提出して手続きをしなければならない。場合によっては3万ないし6万の「延納金」を払い込まねばならない。ま、関係者は皆さん先刻ご承知のことであろう。我が家においても倅どものために私立高校に「献金」したのも記憶に新しい。
しかし生徒は中学校の授業があって、いちいちそんなの行かないわけだから、これはどう考えても親の仕事でしょう。
それをやらない親が今回のウチの中学の3年生の中で続出しているのだ。どういうこと?
<その1>
 忘れていた!ある女子高に合格した生徒の場合。担任が生徒本人に確認してみたら心許ない返事だったので、家に帰ったら親に確かめて明日報告しろ、と言っておいたら夜親から電話がかかってきて「忘れてました!期限が切れてしまいました!どうしましょう?!!(オロオロ)」という有様。結局ウチの校長が相手校に頭を下げて何とかして日程を融通してもらったようだ。
<その2>
 どうせ私立になんか絶対に行かせないんだから(延納金なんか)払う必要ないでしょう!これも別の女子高に合格した生徒の話。この生徒は日頃から生活態度がだらしなく、教師の話も聞いてるんだか聞いてないんだかよくわからない、いわゆる「ヘン」な生徒。こりゃやばい、というわけで、本人に確認してみると、とにかく親が、「私立には絶対行かないんだから、受験料を出さない。どうしても受けたいんだったら自分で受験料を出せ」ということで、生徒が自分の小遣いだかお年玉で払ったらしい。そして、さらに親に確認してみると、「自分で勝手に受けたんだから、延納料も自分の小遣いで出せ」と言っているというのだ。本当だとしたらどういう家庭なんだろう。子供が「ヘン」になるわけだよね、とも言いたくなるではないか。

 そして、いずれの場合も、その日の午後から本人たちに中学の授業を切り上げさせて「今すぐ自分で手続きをしてこい」と高校へ飛んでもらったのだ。ちょっと可哀想じゃないか?可哀想だと思わないか?俺はまあ担当学年じゃないから「気をつけてな」と職員室の窓から声をかけて見送っただけだったが、後ろ姿を見送るのがなんだか切なかったぞ。

 本当に、この頃の親には理解のできないことを言ったりやったりするのが多い。学校に文句を言ってくる「モンスターペアレント」もおかしいかもしれんけど、こんな形で子供に冷たい仕打ちをするのってもっと変じゃないかい?我が子が可愛くないのかねぇ…。というか、大人の行動では絶対にないと思う。いったい何のために「滑り止め」を受けさせるのか。県立の本番で不必要に上がってしまったり、体調不良だったりするときの「安心料」じゃないか。護送船団方式と言われるのも重々承知だけれども、なにしろ受験では何があるんだかわからないんだから、大人の立場でできる手だてを用意してやっているんじゃないのか?俺が最近担当した3年生でも、何度その説明をしても聞き入れないバカ親が複数いたが、とにかく「受験作戦」の手順が、保護者の「狂った」意識によって狂い始めているのを感じる。

というわけで急遽、延納手続きが完了しているかどうか他の親にも確認することになったのだが、こんな不条理なのって、他の学校でも頻出しているものなんでしょうかね?俺には信じられません。

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