最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

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子供に言葉をしゃべらせろ:その2

 以前に書いた、「子供に言葉をしゃべらせろ」というのが、いつの間にか別のサイトで紹介されていた。俺ごときの勝手気ままな放言みたいなものをこんな形で取り上げてくれるなんて面映ゆくもあるが、そこにいろんなコメントがついていたのも結構笑えるものであった。しかし、後でよくよく考えてみると笑ってばかりもいられないものもあるな~~、というのがあったので紹介しようか。


・生徒に正しい日本語を使わせたいのなら、先生が手本にならないとね。
「やるの?」「どこの?」なんていってるから子供がそれで通じるんだって思っちゃうんですよ

・先生も丁寧な言葉を使うべきですよ。
「おい」とか「おまえ」とか名前を呼び捨てする
教育者というより、敬語を使われて当然というおごりが背景にあるように思います。


「敬語を使われて当然というおごり」だって?プッ。結局、教師という「機能」について何もわかってないのが如実にわかる。この場合は「使わせて当然という使命感」っていうべきなんだよ。
 本当はこんなの「揚げ足取り」の一言で片付ける程度の取るに足らないもののはずなのだが、困ったことに昨今の「自我の肥大した大衆」の間ではそれなりの説得力を発揮する言説となってしまっているように思うのだ。確かに、ちゃんとした言葉遣いを指導するはずの先生が「てめえこのヤロー」では一見カッコがつかないようにみえる

 だが、違うのだ。先生が生徒に対してぞんざいな口をきいたからといって、なぜ子供がそれに右へ倣えをしなきゃいけないんだ? 子供は大人とは同じじゃない。立場が違う。分をわきまえなければいけない。先生がぞんざいでも生徒は敬語。そういう風に教え込めばいいだけの話。それで何が悪いのか俺ごときのバカな脳みそでは全く理解できない。「分をわきまえる」というのは学校卒業した後もずーっと続くよ。俺の職業遍歴(乏しいけど)の中でも立場の上下、年の長幼、身分の上下、序列その他でちゃんとぞんざいと丁寧が使い分けられてたよ。どこのTVドラマを見てもどの小説を読んでも映画を見ても、目上はぞんざい、目下は丁寧。あなたのご家庭では違うんですか?それで、学校だけは生徒と同等の丁寧語を教師は使え、と?は~~いいんですか、そんな教育しちゃって。というか、そういう要求ってどんな意味があるの?教師って、社会に出る前の子供が親以外に遭遇するほぼ唯一の種類の「大人」なんだけどね。

 それともう一つ、小学校と中学校の違いもある。中学校は(これは俺自身もおぼろげに感じるだけだが)伝統的に社会との接点の役割を担っていたのではないか。小学校では正しく美しい形を身につける。しかし卒業後直ちに就職に結びつく可能性もある中学校では、そこに「清濁併せのむ」という要素を加えていくのではなかろうか。小学上がりがビックリしちゃう、教師のぞんざいな言葉遣いもその機能の一環だったんでは?ま、想像に過ぎないけどね。

 もちろん、言語環境を整えよう、とまじめに取り組もうと思えばこっち(教師)の言葉遣いだって自然に改善されてくるよ。「ダメじゃねーか!」が「困るじゃありませんか。」ぐらいの変化は発生している。(生徒指導の威力にどんな影響を与えるか、は別問題。)下手をすれば「慇懃無礼」なんじゃないのこれ?と思うぐらい丁寧に話すこともあるよ、生徒は感じないけどね。
 でも俺が幼少の頃の記憶では、近所のおじさんやおじいちゃん(知らない人は特に)は、別に大店や名家のお坊ちゃんでもないただの洟垂れ小僧であるところの俺なんかに向かってでさえも必ず、「坊ちゃんは・・」とか「・・なさる」なんていう言葉遣いで話しかけていたし、そういうのは江戸時代からの日本の伝統だったらしい。今みたいにTVなんかから汚い情報が子供の耳に入ってこなかったわけだし、大人社会全体が子供の言語環境に細心の注意を払っていたんだね。そういう社会を再び作りましょう、と言われれば俺だって全面的に協力するよ。たぶん日本中のどの教師だってそのくらいのことはできるであろうし、するであろう。



なお、この項では一部の、「ある種の悪意」を持った教師の発言は想定しておらず、あくまでも、普通の教師と普通の生徒が普通に生活している場面を前提にしています。(何をもって「普通」とするのか、なんて揚げ足をとられても困るけどね)
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テーマ:教師のお仕事 - ジャンル:学校・教育

皆勤賞は廃止された?

 昔、「皆勤賞」というものがあった。3年間、欠席・遅刻・早退がゼロの生徒を表彰する、という例のやつである。平成に入ってからというもの、どこでも廃止の方向に進んでしまった。

理由1:皆勤賞までもうちょっとだと思うと、熱があっても無理矢理学校に来ちゃう生徒が続出した。
理由2:学校には様々な「灰色ゾーン」の時間があり、たとえば、始業のチャイムが鳴った瞬間に校門を入っていればセーフなのか、教室で着席していなければアウトなのか、が年度当初の申し合わせで曖昧だったりすれば、担任によって遅刻カウントの取り方が違ったりするので、トラブルになることが多かった。
理由3:別に病気じゃなくても、冠婚葬祭などで休まなければならなかったりすると、それで欠席がついてしまい、フェアじゃない。

 他にもいくつか理由があったが、何しろ「皆勤賞」は、ただ単に元気で規則正しい生活をしているなら大丈夫、というものでもないからやっかいだ。俺の受け持った生徒でも、ずーっと無遅刻無早退無欠席できていたのに、3年生の秋に友達がたまたま投げた石が運悪く頭に当たって怪我をし、(当人はいたって元気なのに)2日間検査入院をさせられただけで皆勤賞を不意にした、という出来事もあった(かなり口惜しがっていた)。つまり、けっこうの好運が味方しないと受賞の栄に浴せない、とも言える。
 そして、これが高校入試の時のセールスポイントになる、という話が一般的に流布されるようになってからは、かなり多くのトラブルが発生した。まあ、いずれももっともというか、やむを得ないことではあったのだが…。

 でも、「ちゃんと学校に来る」というただそれだけで表彰されるなんて、ちょっと微笑ましいことなのだ。そして、その表彰を受ける生徒というのは、誰もが「ああやっぱり…」と思うような子ではない場合がある。むしろ「え?何であいつが…???ありえね~~!!」というようなヤツが多いのだ。
 だいたい、いつも朝礼なんかの時に名前を呼ばれて壇上で賞状をもらうヤツって、顔ぶれが決まってるじゃないですか。書道でも、読書感想文でも、ああ、あの子ね、というような、まじめで秀才でいい子ばっかり。だが、皆勤賞だけは違っている。だから、表彰の時なんかに名前を呼ばれても、まず(そいつがイチビリの場合)まわりの生徒から失笑ともつかない笑いが起き、または(普段は全然いるのかいないのかわからないヤツの場合)「お~~~」というどよめきが起き、当の本人はキョロキョロして「え??俺かよ!?」という顔をする(というか、実際声に出して言ってしまう)。そして、賞状をもらうときの態度なんかも全然サマにはなっていない。でも、何をやってもほめられたことのないヤツが、こんな時だけは「偉いね」とみんなから褒められて晴れがましい思いをすることができるなんて、いいと思いません?

 実は、俺の勤務校では昨年度までこの皆勤賞が残っていた。と言っても、学校ではなく、「PTA会長」が表彰する、という形に変化してはいたが。それなのに、ウチの校長は、せっかく生き残ったこののどかな賞を今年度から廃止する(させる)方針なのだ。
 時代の流れからいって仕方ないのかもしれない。この校長もあっちこっちで様々な強烈なトラブルを乗り越えてきた強者なので、危険なニオイのするものに対して敏感なのかもしれない。だが、昔からあったものをトラブルの原因になるから、世知辛い時代にそぐわないから、という理由でバシバシ消していっちゃうことに、一抹の不安を感じるのは俺だけか?それとも単にノスタルジーに浸っているだけのジジイの繰り言か?

テーマ:中学校生活 - ジャンル:学校・教育

第2のルネッサンス

 朝、いつものように時間を知るためにテレビをつけておいたら、コマーシャルで突然歌が流れた。いかにも「あ・た・し、バカでぃ~っす!」という感じの、今時の蓮っ葉なおねーちゃんの声で、
「イン アイネム ベッヒライン ヘールレ ダー ショース イン フローエール アーイル~~」だと。なんじゃ~い!!思わず爆笑してしまった。

 そういえば最近「のだめカンタービレ」というコミックがドラマ化され、それを見た大量の中学生がベートーベンの「交響曲第7番イ長調」やジョージ=ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を知るようになった。なんて画期的な展開だ!

いいことである。シューベルトの鱒なんかも、原語でもあそこまで軽薄な声で歌ってくれれば、敷居の高さなんか感じないじゃないか。「のだめ」にしても、俺なんかが視聴すれば、あまりにも名曲の断片がめまぐるしく飛び出してくるからかえって気が狂いそうになるが、一般ピープルにしてみれば(俺って何様?)今までにこれほどわかりやすくクラシック音楽を紹介してくれる番組はそうそう無かったであろう。

 世紀末が終わってすでに10年である。2000年を中心にして、これほどに「不良文化」が花を咲かせた時代は珍しいのではないか。昭和40年代にPTAや学校関係者がビートルズを排斥したりしたのは今にして思えばあきれるが、それでも、もはや「うんこ」としか形容のしようがない音楽や、どん底までモラルの崩壊した芸人のしゃべりなんかが、全然歯止め無く子供たちの目や耳に流れ込んでしまう現代の方が病んでいるのは間違いない。
たとえば俺(と家内)は「クレヨンしんちゃん」とかはあまりの下品さに我慢ができず、我が子には絶対に見ない・見せないよう厳命し、それは守られたのだが(俺は「ポパイ」や「鉄人28号」なんかが下品だからと、容易には見せてもらえなかった)、そういうことをきちんとやっている親は現在どれほどの割合になるのだろうか。第一そんなことしたら他の友達とのギャップが心配だ、とか考えちゃったりすれば、信念を貫くのは簡単なことではないだろうからな。

閑話休題、俺は、これだけ文化の乱れた世界がもはや倦まれ、これからは「美しい」「穏やかな」「上品な」「質の高い」方向に向かって動き出した、と思いたい。文芸復興だな。そのムーブメントの「点」のひとつとして(今までもいろいろな意味で「点」はボチボチ見られたが)おばかなシューベルトも歓迎したいと思う。ありきたりな言い方だが、その「点」が「線」になり「面」になるのを(何十年というスパンになるかもしれないが)今後期待したいと思う。

テーマ:クラシック - ジャンル:音楽

究極の指示待ち人間

 最近は「朝読書」というのがはやっていて、うちの中学でも朝の学活の前10分間、一心不乱に本を読むことになっている。しかも、担任だけでなく、副担任もどこかの教室に顔を出して一緒に読むことにしちゃったから、(一応)学年主任であるところの俺も生徒に混じって読書をするわけだ。そして俺はこの静寂の時間が大好きなのだ。

 さて、寒い冬がやってきた。3学期初の朝読書の時間は曇天だった。普通、学校の教室というものは日当たりがよくできているから晴れてさえいれば冬でも暖かいものなのだが、その日はそうはいかず、教室はまるで冷蔵庫。本を読んでいても、なんだか寒くて寒くて……
 ん~~~異常な寒さだ、どこかからすきま風が…と思ってふと見れば、何と教室の窓が全開に開けっ放しじゃないか!そしてこの寒さの中、生徒(1年坊主ども)がいかにも寒そうに本を読んでいるという驚愕の我慢大会な光景が繰り広げられているのだ。で、あとで(読書の時間には邪魔になるからやせ我慢でも話はしないのが俺の美意識)担任に聞いてみると…。つまり、朝出勤すると自分の教室に行って換気のために窓を開けるんだが、それを生徒が閉めない、というのだ。
「言われなければ閉めません。寒い、という環境を自分で何とかしよう、とは思わないで、与えられた状態そのまんま。」
なのだそうだ。一言「閉めな」と言えばいいのにそれを言わないというのもどうかと思うが、誰一人として、寒いのを何とかしようとして勝手に閉めちゃおうという生徒がいないって、いったい何なの?
要するに担任も生徒も、なんだか「生きる力」が弱ってないか?

そういえば数年前までは、教室の前後の出入り口の扉には冬になると汚い字で「開けたら閉めろ!」とかいう掲示物がいつの間にか貼られたものだった。出入り口近くの席の生徒が寒さにたまりかねて勝手に作るのだ。今年の1年の教室にはいまだにそれが出現してないなぁ。そして窓際の生徒は寒くてもお構いなし。なんだか変だ。
さらに思い起こせば、今の2年が1年の時、初夏の音楽室で授業をしようとしたら暑かったので、「誰か、窓あけてくれないかな」と言ったのだが、全く一人も動かない、という場面に出くわして背筋が寒くなる思いを味わった。普通だったら何人かが動いてくれるじゃないか。

 自分のためにも人のためにも、「自分から進んで」実際に行動を起こして何かをする、という回路が脳の中に形成されてない。こんな変な奴らがそのまま大人になって社会を動かす時代になったら世の中どうなっちゃうんだろうか。

テーマ:中学校 - ジャンル:学校・教育

部活の効用

 新年早々、困ったもんだ。野球部の2年生が一人、部活をやめたい、といってきた。顧問の、若手の教員が対応して説得していたが、どうなることやら。要するに、指導者がバリバリの高校球児だった人で、そのやり方に厳しくてついて行けない、ということらしいんだな。その生徒を知る教員の誰もが、「なぜ今?勿体ない、これまで続けてきたのに…」という反応である。どこの学校のどの部活の顧問も同じように感じることであろう。

 「部活動」は学校の教育活動の中では最もトラブルの多い部類の活動であろう。実際、イジメだ、シゴキだ、体罰だ、としばしば新聞を賑わしているのを目にする。最近は合宿所で大麻を栽培していたなんて大事件まであったな。そこまでは関係ないにしても、「活動時間が長すぎる」「金がかかりすぎる」「先輩が怖い」「土日が無くなる」「体力もたない」「塾に行けない」など、本人だけでなく保護者の不満も大きい。それなのになぜやるんだ、部活を??

 俺としては、俺自身が教師になってからの20余年の学校教育を取り巻く状況の変化を体感してきた上で、
「部活動は中学校教育最後の砦」、という結論に何年も前に到達した。

 考えてみれば現代の中学校では一体いつ、どんな場面で、子供たちの精神の成長を意図的に促す活動が行われているだろうか。とにもかくにも、やれPTAがああ言ったのこう言ったの、テレビや新聞がどうだの、「有識者」とか文科省とかがあれはいけないこれはいいだのって、寄ってたかって公教育をいじくり回したあげく、もはや公立中学校の内実は全くの腑抜け状態だ。生徒のやりたいことをやらせてあげて、イヤなことは回避させてあげて、いつも気持ちよく楽しく快適に過ごさせてあげて、生徒が学校に来たくない、もう死にたいなどと言えば腫れ物に触るように大事にしてあげて、非行や怠学などの反社会的な行動に対してさえも丁寧に話を聞いて理解を示してあげて、、、、(これで学校というフィールドがいまだに形を保って存在しているということ自体、もはや「現代の奇跡」といってもいいくらいだが~~実際ぶっつぶれている学校もあるが~~それはともかく)これで子供が大人になれると思います?

 他の項でも書いたが、教育活動の中では(人間が成長するためには、と言い換えてもいいが)「鍛錬」「忍耐・我慢」「反復練習」などのカッタルイ部分を避けて通るわけにはいかないはずなのだが、それを生徒の前に課題として、具体的な形にしてド~ンと置いてあるもの、それが「部活動」である。部活動の最も大きな意義は、それぞれの生徒が「自分の好きなことを追求して伸ばしたい」という「種」をまいて、「苦労して上達する」という形でそれを「収穫」するというところにあると思うが、肝心なのはそれが生半可なことをやっていたのでは簡単に実らない、さらに、収穫するときにはそれが大きな果実だというのが目に見えて実感できる、ということである。それはたとえば、練習試合や公式戦で相手に勝利する、記録を塗り替える、などという大いに喜ばしい形で体験することができる。
 だから、顧問・指導者だって時には鬼にもなるよ。「部活の時の先生は、鬼ですよね!」と俺自身、かわいがっている部員からうれしいことをいわれたこともある。勝たせたい、この苦しみを通した喜びを我々のものに、と思えば知らず知らずのうちに熱くなる。チームプレーの部活だったら軍隊的な組織を構築することさえある。
 しかし顧問や指導者はいつだってそばにいるわけじゃないからどうしても先輩が後輩を指導する必要がある。中学生じゃ人間的にも未熟だから、言うことを聞かない・飲み込みが悪いといったタイプの後輩や、独りよがり・寛容性が低いといった先輩がトラブルを起こしやすいのは当然だ。うっかり放っておけば取り返しのつかなくなる(たとえば下級生全員が退部しちゃうとか)ことだって、それほど珍しいことではない。
 他にもある様々なトラブルに見舞われても、それを何とかなだめすかし、共通の目標を設定してそっちに意識を向けさせ、場合によっては自らを悪者にしてでも集団の意識を統一し、曲がりなりにも部員たちに「成功物語」の登場人物になってもらうのが、顧問たる者の腕の見せ所である。
 そして、彼らに「勝利の快感、達成した喜び」を実体験させ、自立心、忍耐力、責任感、協調性、礼儀作法、自主的判断力、リーダーシップ、明るい性格、体力に運動神経等々々々々々…を身につけさせ、(あわよくば高校入試の敷居も低くしてもらい)たくましくも立派な大人になってもらうのだ。

 だが、すべては茨の道。生徒だってそれぞれだから、中には耐性の低いヤツも混じっている。家庭環境が影響して簡単には統一行動ができないのもいるし、塾や習い事の方を優先させちゃうヤツもいる。そして、人間関係を上手に結べない、技術が向上しない、礼儀がなってない、我慢強くない、無意味なまでに批判的、など様々な理由で、しょっちゅう挫折しかかる。
 ところが最近の子供はその、挫折に本っ当に弱い。すぐ部活をやめようとする。しかも困ったことには、
頼みの綱の親たちが子供の挫折に寛容なんだな。結局、説得はあまり功を奏せずに、あっさり退部してしまうことが、昔(といっても何年といえない)に比べて圧倒的に多くなったのではないか。ふつうなら、「親は何て言ってんの?」というところから辞めようとする生徒を引き留めにかかるのだが、その返事はたいてい「お前のやりたいようにやれ、って言ってます。」である。「子供を信じてます。我が子の自主性に任せます。」ってわけだな。一見、子供を大人扱いっていうか、物わかりのいい親を演じているってことか。だけど、アンタの子供ってそんなに立派な人間なの?
 そのとき苦しいから、辛いから、といってそこから逃げたがる子供に、「将来こうなるはず」というビジョンを示し、場合によっては口に苦い良薬を飲ませてやるのが子供に関わる大人の役目だと思うのだが、「お前のやりたいようにやれ」は、そうではない。俺はその言葉に「親の愛」を感じない。むしろネグレクトに近い態度なんでないかい?昔の親は「何が何でもやめるな!」という強靱なメッセージを送り続けていたものなんだがな。

 そんなわけで、何しろ部活を続ける原動力が、生徒の持つ、あり合わせの弱々しい根性だけなんだからこれじゃあ手の打ちようがないのも当たり前だ。よほど自信がある顧問でもなければ「子供たちに合わせて、方針、換えよっかな…」という流れになるのは自明であろう。そして、そうやって弱々しい子供はたくましい大人になるチャンスを奪われたまま、年だけ食って図体だけでかくなる。

 それでもあえて声を大にして言いたい、
部活動は他にはない中学校教育最後の砦だ!
子供を部活の重圧・部活の苦しみから逃がすな!!

テーマ:教育 - ジャンル:学校・教育

なんで勉強できる子を褒めちゃダメなんだよ?!

 この前の期末テストで、中学1年生で俺の問題に100点を取った生徒が何人かいた。テスト返しの時間に俺が、
「100点を取ったのはこのクラスの○○君と△△さんです。」
と言ったところ、そのクラスがどよめいた。だがそれが100点を取った人を褒めたたえる、いつものどよめきの色ではなかったので、俺はいぶかしく思い、ちょっと聞いてみると…。
 驚いたことに、そのどよめきは、俺が100点取った生徒の名前を言っちゃった、ということに対する驚きのどよめきだったのだ。え?え?言っちゃダメだったの??いいんじゃないの、いいことなんだから?違うのか??だって、今までも俺、けっこう言ってたよ??

 みんな、今まで疑問に思わなかったか?
 実は、これこそが公立小中学校のかなり重大な構造上の問題だ、と俺は思っている。すなわち、公立小中学校にはどういうわけか、そしていつの頃からか、
「勉強ができる子を褒めてはいけない」という不文律があるのだ。

習字の上手な子は「書き初め展」や「硬筆展」。
ピアノの上手な子は「合唱祭の伴奏者」。
文章を書くのが上手な子は「読書感想文コンクール」や「作文コンクール」。
絵を描くのが上手な子は「郷土を描く美術展」や「児童生徒美術展」。
アイディア豊富な子や手先の器用な子は「発明創意工夫展」。
駆けっこの速い子は「通信陸上大会」。
長距離走に強い子は「駅伝大会」。
球技が得意な子は、各種の部活の大会。

 子供たちを誉める場は他にもいろいろあるにもかかわらず、そして、文科省を頂点としてあれだけ子供を褒めろ子供を褒めろ、と鉦太鼓をたたきまくって騒いでいるにもかかわらず、一番肝心の「勉強のできる子」を誉めたたえるシステムがないのは一体全体なぜなのか?もちろん場面場面ではやってますよ。授業中に手を上げて答えた子なんかを褒めたりして。しかし、それはかなりの場合、できない子の「できる」という夢を覚まさないために用いられる手段だったりする。あんまり勉強のできない子を指名して答えさせ、わかる喜びを味わわせるなんてけっこうありそうだし、まあ、それはそれでもいいのだが…。

かつてあった、定期考査の合計点が高い順に名前と順位と得点を書いて廊下に張り出すとか、成績優秀者を卒業式の時に「右総代」として記念品授与をさせるとか、一番勉強のできるやつを「級長(学級委員長)」として担任が指名するとか、そういう
公的なシステムとして勉強できるやつを褒めることはなぜ消えてしまったのだろうか。
 まあ思うに、寺脇の「すべての子供たちに100点を!」といったイカレた発言を象徴として、それまでも行われてきた行きすぎた悪平等主義の結果なのだろうが、できる子をできる、と言っちゃいけない、認めちゃいけない、というのはやはり困った問題である。だって、せっかくできても褒めてもらえないんじゃ、総体的にやる気だって失せるじゃん。できない奴ができるようになるのを待っていたのでは、あたらよくわかる奴が嫌気がさす、というのは俺ごときが今さら言うまでもなくすでに世の中で騒がれているが、それだけでなく、よくできる奴同士の競争心をも阻害し、頂点を低くしてしまうではないか。

 上にあげた習字をはじめとする様々な「特技」というか「才能」はできる奴にはできるし、俺のように何をやっても全然ダメな奴もたくさん?いる。それと同じように、国語や数学などの教科も、できるかどうかは生まれついての才能も関わっている(というのはおおかたの教員は体で感じているであろう)。できる奴はできるし、ダメな奴はダメだ。だったら、できる奴を褒めてやって、もっとできるように仕向け、できない奴は早めにあきらめさせて(というか限界を感じてもらって)自分を生かす道を探そうと思ってもらうのも、将来の進路選択のために有意義なことではないのか。「やればできる」という幻想に縛られ、いつまでもゴールの見えない勉強に不必要に身をやつす人間があまりにも多すぎないか?それはモラトリアムをいたずらに長期化させて社会の損失になってるような気もするし、大人として成長し損ねた人間を多く輩出させている遠因になってるような気もする。

 音楽の世界ではその辺はっきりしている。いらない奴はいらない、ダメな奴はダメ、と割り切っていて、実際ダメな奴は「やめろ」とはっきり言われるし、音大の先生なんかもレッスンの扱いでは明確に差別をなさる(できる奴ほどメチャメチャにしごかれるから、一目瞭然)。しかしそれは冷たいからなのではなく、「無駄なことにいつまでも時間と金をつぎ込まずに早く違う道を探せ」という親心のメッセージなのだ。何といっても音楽は、演奏を聴けばできる奴もできない奴も一撃でわかっちゃうから、下手な奴はあきらめが悪ければ悪いほどかわいそうな思いをすることになるからね。
また、たとえば新弟子不足に悩む相撲部屋だって、まさか体重が45㎏しかありません、なんて子を入門させたりはしないだろう。向いてない奴にいつまでも不毛なことをさせておくのは可哀想である。


だからといって現代は「勉強に才能のない奴はいつまでも勉強にこだわる必要はない」というメッセージを生徒に対してあからさまに出すわけにはいかない世の中ではあるが、せめて期末テストの順位(上位10位までとかでも)を公表するぐらいは復活させるとか、勉強できる奴を公に褒めるシステムを少しは構築してほしいものである。先進国の中で家庭学習の時間がとりわけ少ない、という現状の打破に貢献するぐらいのことはできるかもしれないぞ。(何回か提案したけど、冗談にしか受け取ってもらえずにスルーされたけどな。)

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

学力と学問

 数日前、家内と二人でドライブをしていたときのこと、ある学習塾だか教材屋だかの看板が目を引いた。曰く、
「すべての子供に学力を!」

 学力?すべての子供に?なぜ?

 本当に必要とされているものは何だろう。「学力」じゃなくて「学問」じゃないのか?「学力」は学問のための手段に過ぎないじゃないか。それなのに「学力を身につける」ことが目的になってしまっている、ということに疑問を持ってみると?
 突き詰めて考えれば、人間に必要なのは「生きる力」でしかない。「生きる力」といっても文科省が最近言ってるへんてこな定義の言葉じゃなく、「生活を切り盛りし、自分で稼ぎ、家庭を作って子をもうけて育て、社会を構成する一員としてマナーもわきまえ、税金も払い、責任を持って暮らしていける力」、とでもいおうか。そのために「学力」は絶対に必要なものなのか。必要ならば、どこまで高度な「学力」が必要なのか。昔の小説や立志伝にしばしば登場する台詞、「百姓に学問はいらねぇ!」なんて類の言葉が脳裏をよぎる。
 じゃ、「学問」って何なんだよ、と問われれば俺もそこまでは考えてはいないが、少なくとも「手段」が「目的」になってしまったのでは、正しい方向へは物事が進まないだろう。さらに言えば、本来「手段」のはずのものを「目的」と勘違いして(あるいは大人から示してもらえないままで)身につけさせられる子供こそいい面の皮、カワイソウといってもいいであろう。そんなことをやらされていれば当然、「理科の実験なんて時間の無駄だから実際に授業でやる必要はない、結果だけ一言で教えてもらえればそれで受験勉強には事足りる」、なんて発想が生まれるに決まっている。

 まあよくはわからないがともかく、すべての子供に「学力」を身につけさせることは必ずしも必要ではないんじゃないか?と、ふと思っただけだ。

テーマ:勉強 - ジャンル:学問・文化・芸術

品性の変遷…!

 教師になってすぐの頃、といってももう20年も前になるが、生徒の発言で非常に驚きを禁じ得なかった一言がある。それは、
「先生、おごって!」
バリエーションとしては、
「先生、アイスおごってくれ!」
「先生、ラーメンおごって!」
これらの言葉が普通の会話の中で、生徒の口から何のためらいもなく出てくる、というのはどうしたことであろう。今では慣れてしまって何とも思わなくなってしまったが、その当時は実に実に強い違和感を覚えた。実際、子供がこういうことを言うのに対し、嫌な思いをするのは何歳より上の人間なのだろうか?

 というのも、俺が小さい頃は(などと言うと自分が年を取ったのを感じるが)親以外の大人の前で「何か食べたい」「何か食べさせて」などと口に出して言うことは、絶対に犯してはならないタブーだった。
「道に出て物乞いをしてこい!」
「オマエは乞食か!」

という叱責の言葉が大量の弾丸となってまるで集中砲火を浴びるように飛んでくるものだったからである。この価値観は大人に限らず、子供の間にも徹底的に染みついていたから、(俺もやっちまった経験あるが)先生の前で「暑いからアイス食べたいね」なんてことを口に出してしまうマヌケがいようものならそれこそ大変!一大事!子供たちがこの世で最も軽蔑している職業?であるところの「乞食」に擬せられてトンデモナイ悪口を先生からも生徒からもいやっちゅうほど浴びせられることになり、最大最悪の屈辱感にまみれなければならなくなるのだ。

 俺が教員になって前述の驚きを感じたのは、その子供時代から20年もたってない。先生に向かって「おごって」なんて、俺の時代にうっかり言おうものなら鉄拳が飛んだであろう、と思うと隔世の感がある。と言うより、何の違和感もなくその発言を受け入れている先輩の先生方に対しても、すごい驚きを感じた。それどころか、実際求めに応じて生徒に何かをおごっている教員もいるらしいのを知ってもっと驚いた。教師としての品格っていったい何なのか?

 それに、そもそも人から食べ物を恵んでもらうことを「恥」と思う文化はいつ、そしてなぜ消えたのか?只酒を飲むのは下品、なんてこともいわれるが、何の損得関係もない他人に食べ物(に限らず)をねだるのはみっともないことではなかったのか。というより、人間の尊厳:プライドに関わる、譲れない一線のようにも思えるのだが、そういう考えは古いのか?(今さら言っても仕方ないと思うがね。)

テーマ:子育て・教育 - ジャンル:学校・教育

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