最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

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部活の引率ってけっこう危険

 5年生の子がサッカーの試合の帰りに高速道路でバスから転げ落ちて死んだ。その両親の記者会見、というのをテレビで見たが、誠に痛々しい限りで言葉もない。不運な「たまたま」が積み重なった時に、誰かが死ぬような運命に遭遇してしまうのだろうか。俺自身、こういうニュースが一番見たくない部類のものだ。子供が死んだり大怪我をすることほどいやな話はない。

 さて、この事故では引率者の大人はたった一人だけ、しかも運転手を兼ねていた。公的機関ではないので特に規定があるわけでもないのだろうが、引率の体制が決定的に人手不足で不十分だったのを感じる。

だが、それなら「公的機関」であるところの中学校での部活、練習試合や大会の「生徒引率」なんかはどうなのであろうか。
 部活動の引率は、よ~っく考えるとけっこう危険がいっぱいである。だいたい、ひとつの部活に顧問は一人。体制としては上述のスポーツ少年団と大してかわりはない。生徒が大勢ひとかたまりになって自転車で移動するのに、引率の教師は自動車で伴走というのもよく見られる光景で、そんなに面倒を見られるわけではないし、目が行き届くわけでもない。吹奏楽部なんかはもっと深刻で、肝心の顧問は楽器運びの自動車を運転、生徒たちは部長を中心に引率教師とは離れて、自主的に自転車から電車を乗り継いで会場へ、なんて場合も多い。
頼みの綱は「生徒の良識」のみ。理解のある管理職なら、何とかしてもう一人引率の教師をつけようとしてくれるのであるが、そうでない場合や、当日に出張だの学校行事だのが重なって学校の方が職員の手が足りないなんてことになったりすれば、一人でやるしかない。日頃の部活運営がうまくいっているなら、部長に頼めば阿吽の呼吸で万事つつがなく取り仕切ってくれるが、そうでなければもう心配の種は尽きない。
 当日になると、自転車に上手に乗れない奴が電信柱にぶつかった、止めておいた自転車の鍵をなくした、パンクした、体調が悪くなった、財布をどこかに置き忘れたなど、トラブル続出なうえ、不必要なもの(たとえばケータイ)を持ってきたとか、お弁当を忘れて無断でコンビニに買いに行っちゃったなどの「生徒指導上の問題」も発生する。

 何にせよ、少ない人数の大人がたくさんの子供を連れて出かける場合には、どんなに気をつけたところで完全に安全ということはあり得ない。かなりの部分で、生徒一人一人の気質、躾、責任感、協調性、TPO、交通安全についての知識、運動神経、危機管理能力、さらには運のよさなんかにさえも頼っていると言えるであろう。
子供はある日突然大人になるのではない。上述の能力だって放っておいたのでは年相応に高めることもできない。大人が不断の注意をもって、意図的にそれなりの方向に導いていかねばならないのだ。そして、中学校に入る頃には「引率の教師は当てにしなくても平気」という前提で(安全確保、という観点から言えば実際当てにならない)、行動できる生徒に育っていて欲しいものである、と無い物ねだりをしてみようか。いや、そうでもしてもらわないと、危なくてしょうがないのだ。
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テーマ:子供の教育 - ジャンル:学校・教育

伴奏をしてくれる生徒とガッコーとの関係

 どこのクラスにもピアノが弾ける生徒がいるように、小学校でも中学校でもクラス編成をする。音楽会や合唱祭などで、クラスの演奏の伴奏をしてもらうためだ。場合によっては、学年で1・2を争うほどピアノの達者な女の子たちは、「あたしたちは絶対一緒のクラスになれないのよね~」などとクラス替えの季節になるたんびに言い合っている。

 ピアノの弾けるお子さんは重宝なものだ。「ピアノ」は特殊技能である。そこそこ習得するにはそれなりの忍耐が必要だ。それを持ち合わせている、という時点ですでに人間性にも信頼が置ける場合がほとんどである。家庭もしっかりしていて我が子の教育に対するそれなりの意志というか方向性を持っており、子供の生活もきちんとしている。
 さて、今「重宝」という若干失敬な言葉を用いてみた。ピアノの弾ける子とガッコーの関係はちょっと微妙である。音楽会にしても、各種の行事にしても、「ああ、伴奏は○○ちゃんにピアノを弾いてもらいましょう」という方向に先生もまわりの生徒も流れていく。そして、上述のように、ピアノの弾ける子はそれなりの人間性(責任感・プライド・忍耐力その他)を持っているし、あたしの他に頼める子はいないもんね、という状況を読むことも出来るし、音楽の教師に対するある種のシンパシーを持っている場合も多いからほぼ断られるということはない。

だけど、なんだか便利屋さんだよね。無報酬でいいように使っちゃってるって感じ。

 ピアノを習うにはそれなりの環境が必要だ。家には場所を取るデカイ道具:ピアノが置いてある。レッスン料だって調律代だってバカにならないのを払っているのは親だ。遊びの時間を削って毎日ピアノの練習をして毎週レッスンに通うように不断に気を遣っているのも親だ。それを学校は当然のような顔をして、タダで頼んじゃって。本人たちはどう感じているんだろう。

 実はウチでも3人の子供が時々に伴奏を請け負ってきたものだった。特に大変なのは合唱祭の伴奏だ。クラスの「運命」もかかっている?から、伴奏の練習も必死である。家に帰って暇さえあればピアノを弾きまくり、家人だってうるさくてしょうがない。同じ曲を何度も何度も聞かされた日にはもう騒音公害の世界だ。兄弟(というよりたいていは姉妹)で伴奏者なんてことになれば家に1台しかないピアノを奪い合う。さらに中3ともなれば、受験生なのに勉強そっちのけでピアノだ!なんてことになれば、端で見ている親のほうが胃袋が縮む思いじゃないか!!
 それに、伴奏を頼まれた子が通ってるレッスンの先生だって、大変なんだぞ!予定のカリキュラムの変更を余儀なくされるし、その子がちゃんと弾けるかどうかに自分の評判が関わってくる場合だってあるし、とてもじゃないが弾けないような難しい伴奏を請け負ってきて、「何とかしてください~~」なんて間抜けな子も中にはいて、そういう場合は伴奏譜の改竄(音を減しちゃったりなんだりして誤魔化し、その子でも弾けるように楽譜をいじくっちゃう作業:多少のセンスも要求される)までして何とか期日までに仕上げるのだ。中には、俺は出会ったことはないが、心配で合唱祭を見に来るピアノの先生もいらっしゃるらしい。

 ガッコーの先生はその辺の事情を少なくともわかっていた上で、生徒に伴奏を頼むべきであろう。それなのに、技術の伴わない生徒に十分な時間を与えないで頼んじゃったり、もともと難しすぎて話にならないような楽譜を「やってこい!」と押しつけちゃったり、複数の生徒に同じ曲を頼んで上手な方を選ぶなんて失礼なことをする教師のなんと多いことか。そのたんびに裏で親・家族・ピアノの先生・本人たちが想像を絶する混乱を来しているのが見えないのだろうか。自分ではろくろく弾けもしないくせに偉そうにオーディションなんかやりやがって、選ばれなかった生徒や保護者の気持ちはどんなことになっているのか、少しでもわかっているのか。
 中には自分の思い通りに弾いてくれないからって「この○た○そ!」などと級友の前で罵倒するような教師までが実在するとは、とても信じられないが本当だ。俺の家内のところにピアノを習いに来ていたある中3の男子は、「(その)音楽の先生が大嫌いで、金輪際伴奏をやるのはイヤだから、ピアノを習っているわけにはいかない」といって5月にレッスンをやめてしまった。まさに言語道断。個性を大事にしない教育ってこういうのを言うんだろうな。

 そして俺もまたピアノが弾ける子に伴奏を依頼する側の人間である。
俺の方針としては、出来るだけ時間に余裕があるように依頼し、弾ける生徒が何人かいても最初からこの一人に、と決めてしまい(一方的に指名するわけじゃないよ)、弾けるようになるまでそれなりに面倒を見る。さらに、「ピアノは、他の奴にはまねできない特殊技能であるし、おまえらが遊んでいるときに一人黙々と練習をしてきてくれているんだから、誰も、絶対に、ピアニストを不快にさせるような行為をしてはいけない!」と繰り返し繰り返し注意を促し、少なくとも音楽の時間だけは大切にされるようにしている。
 実はピアノを習う子と伴奏を頼むガッコーとの関係は持ちつ持たれつである。ガッコーがいろいろ助かるのはもちろんだが、伴奏をする子にしてみれば、「人前で弾く本番が増えて舞台慣れできる」「音楽教師や一緒に歌う生徒とのすったもんだが発生し、それが結果として音楽性の幅を拡げることになる」など、単にレッスンに通いました、発表会で演奏しました、というのとは別の体験ができるうえ、これをきっかけにつめて練習するから、ほとんどの場合技術も向上する。音楽教師としてはこれらの、生徒に現れるメリットを最大限にしてやるように持って行ってやるのが大事、というかせめてもの感謝の気持ちの表し方というものであろう。
 さらに、卒業式などの行事で伴奏をしてくれる子は、もはや尊敬に値する。そういう子たちはまさしく「協力」「奉仕」の精神でこれらの行事に参画してくれているのだ。絶対におろそかな扱いをしてはいけない。
本当に感謝、感謝である。

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「学校はサービス業」という見事な論理

 「学校はサービス業」…誰が言い出したのかは知らないが、平成になってから聞かれるようになったフレーズだ。非常に誤解されやすい言葉である。言うほうも聞くほうも。「サービス業」という言葉からは、「接客」という方向へダイレクトに連想が進む。ホテル、アミューズメントパーク、旅行代理店、といった業種と、学校が一緒だ、と考えるのはまさに画期的な発想の転換である。

 この言い方から想像すれば、学校というところは、お客様であるところの「生徒」をいい気持ちにして帰すことが大事なように見えるではないか。教師だって教師じゃない大人だって、この言葉からは大概そんなイメージを抱いてしまうはずだ。うっかり「学校はサービス業」という言葉を小耳に挟んだことでそういう誤解が拡がれば、学校で子供にイヤなことが起こったときに、保護者としてもクレームをつけたくなる、いや、つけなければいけない、という方向に話が進んでしまう。
たとえば、「ウチの子の音楽の成績が3なのはどういう訳ですか!あんなに一生懸命やっていたのに、ひどいじゃないですか!(一生懸命やってるのはキミんちの子だけではない)」「学級委員を決める選挙でウチの子が負けるとはどういうことですか。ウチの子はクラスの嫌われ者ということですか!(推薦されたから選挙になったんだ、身の程を知らずに立候補する方が悪い、落選したこととクラスの嫌われ者ってなんで結びつくの?など、状況は様々)」「ウチの子が吹奏楽部で楽器をトランペットにしてもらえないのはどういうワケですか!やりたい楽器を割り振ってもらえないなんてひどいじゃないですか!(元々やりたいようにはならないって説明をあ・れ・ほ・ど・受けた上で入部したんだろ)」とまあ、ちょっと前だったらあり得ないようなバカバカしいクレームを、実際に俺も聞くようになってきた。これはもしかすると「学校はサービス業」という発想をはき違えた結果であるかもしれない(そこまで考えずに本能の赴くままに文句を言ってるだけの奴も多いか…)。

 しかし冷静に考えればすぐわかることだが、もし「学校がサービス業」であるとすれば、そのココロは「お客様であるところの保護者の期待(要求?)に応えて、その子女に一定の学力なり生活力なりを身につけさせるためのサービス」ということになる。言うまでもないが義務教育とは子供が学校に行く義務ではなく、保護者が子供を学校に行かせる義務のことだからな。クライアントはあくまでも保護者なのだ。そして、まっとうな意識を持った保護者にしてみれば、(税金という形にしても何にしても)それなりの代価を払って子供を学校に行かせている以上、学校に行ったのにさっぱり学力が身に付かなかったり、文部科学省が規定しているカリキュラムをちゃんとこなさなかったのでは、これこそ「契約違反」であってクレームの対象、と考えられるはずであろう。

ということはつまり、お子様をいい気持ちにさせて何にも身に付かない学校よりは、
それが必要とあらばぶん殴ってもけっ飛ばしてでも学力をつけさせる学校の方が、「サービス業」として正しいあり方、と言えるよ…ね。
ちょっと前の日本人は、こんな小難しい理屈を言わなくたって、そんなこと無意識にわかっていたんではないかい?

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個性の定義

 「個性を生かす教育」、「個性化の時代」などと、ここのところ「個性」というものが喧伝されてきた。意味もわからずに。でも「個性」って何なのよ。どうすれば発揮できるのよ、っていうか発揮したことになるのか?みんなわかっててやってきたのだろうか。そうでは無かろう。その証拠に、「個性」と「自分勝手」をはき違えたバカが、見ての通りイヤっちゅうほどたくさん世の中に充満してしまったではないか。だいたい、人目を引くような「個性」の持ち主なんてそうそうたくさんいるわけがない。それなのに、「人は誰でも持って生まれた個性がある」なんてSF作家でも思いつかないような絵空事をスローガンにして、いったい教育界ではニャ・ニ・を・やってきたのか。

 俺は音楽の教師である。今、(おそらく全国的に)中学校の音楽の授業は「合唱」が中心で展開されているであろう。どこの学校でも「合唱祭」「校内合唱コンクール」と銘打った行事が盛んに行われていることからも、そう類推できる。だが、合唱を成功させるためにはなんと、生徒の「個性を殺」さなければならないのだ。勝手なだみ声で歌ってもらっちゃ下手をすれば音楽教師の指導力に対する評価にまで及びかねないし、何より汚い声の合唱なんて聴かされる方も耳が疲れて困るからな。
だから、「一人一人の個性を伸長するためにあなたはどんな学習指導の工夫を行っていますか」なんてお上からのアンケートやレポートの課題が一番困った。まさか「そんなこと毛ほども考えていません」なんて書けないしな。その上、今日ビの生意気な生徒なら、「何でみんな同じ声を出さなきゃいけないんですか」ぐらいのこと聞いてきやがる奴だっているし。このまま進めるためには理論武装が必要だ。どうする?

 ここで、俺が中2の時の担任(保健体育)の語った「個性の定義」を書こう。
「たとえば昔の軍隊では、何も自由はなかった。軍服だって軍靴だって、決められたサイズしかなくて、大きすぎようが小さすぎようが、我慢して支給された服や靴に自分を合わせなきゃいけなかった。行進するときだって、歩くスピードや歩幅はもちろん、手を上げる角度、足を上げる角度、カシラ右の首を曲げる角度など、何から何まで決まっていて、ちょっとでも違えれば往復ビンタの嵐、絶対に許されなかったのだ。そして、
そんな状況の中で、それでも出てきちゃう一人一人の違いのことを「個性」といいます。」

 ある日の学活の時に聞いたこの話はいまだによく思い出す。聞いたときには「そんなバカな!!」という印象が強かったからだ。だが、教員になったとたん、この言葉こそが真実!と俺はハッキリと悟った。実に見事な「個性の定義」である。(そして本当に、教育の力というものは大きい。先生からの恩、というのもいかに深いものなのか、その時々にはわからないものだ。)

もう一つ紹介しよう。これは俺の大学時代の恩師の師匠にして、俺自身にとっても最大の恩師である伊福部昭先生が俺たちにたびたび語っていたことだ。
「君達は作曲をする上で、個性的な曲を書こうと考える。それはいいのですが、たとえば、画学生が「人の顔の絵を描きなさい」という課題を出されたときに、「よし、俺は他の誰もが書かないような変わった人の顔を描いてやろう、と考えて、鼻の穴が一つしかない人の顔や目が3つある人の顔を描いたとする。そうするとそれはもはや化け物の顔というべきであって人間の顔ではないんですねぇ。自分では個性的な絵を描いたつもりであっても、作品として成立しなくなってしまうんです。人間の顔を描こうと思えば、どうしたって、目が二つで鼻と口は一つ、鼻の穴と耳も二つずつある顔の絵を描かなくちゃいけません。音楽においても同じ事が言えるのであって~~~(その先はたいていアバンギャルドな作曲家:作品に対する、老先生の批評になっちゃうので、ここでは省略する)」

さて、ひるがえって、学校現場では、というより教師一人一人はそれぞれ「個性」という言葉をどうとらえているのであろうか。たぶん何も考えてない奴もけっこういるんじゃないか?小学校の教師が往々にして「個性というのは、一人一人の子供が持つ、キラリと光る輝きです」などという訳のわからないことを語るのは知っているが、こういうバカ教師に教えられる子供たちこそ災難というものであろう。

 かなりの人間が勘違いしてると思うんだけど、「個性」というのは、功成り名を遂げ有名人になれるはずの可能性(タレント)を誰もが持っている、なんていうことではないぞ。もしそうなら(そうでなくても)、なにも学校でわざわざ伸ばさなければいけないものではない。本当に強烈な「個性」ならこっちで何とかしなくたって伸びていくものだし、公立学校はもともとそんなことの手助けのためにある施設ではないだろう。
そして、どんな「個性」であっても、それを発揮させるためにはまず最初に「社会生活を営んでいく人間」としてのタガをはめなきゃいけない、ということを「個性の伸長」が(お上のサイドで)声高に叫ばれ出した頃に、俺たち大人は相互に再確認しあうべきだったんだな。つまり俺たちは、巷間言われているところの「個性を伸長」させるための教育実践を、してはいけなかったのだ。(といってもとりたてて「やった」という学校も少ないであろうが、少なくとも生徒への「上から押しつけ」がユルくなったのは否めなかろう。)

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学校給食とバーバリズム

 学校給食の本来の存在意義が完璧に失われて、すでに数十年になるであろう。今時、喰うもんがないなんて子供はきわめて特異な生活環境におかれている、と言っていい。「欠食児童」の栄養状態を良好に維持しよう、という当初の親心的な学校給食の理念は、我が日本国ではとっくの昔に無用のものとなっているのである。
 にもかかわらず、学校給食をなくそうという動きが、ごく稀で不幸な例:庄和町を除いて全然上がってこないのはなぜなのか。庄和町での「給食廃止」論議は、お母さん方の「弁当作るなんてムリ!面倒くさい、絶対ヤダ!!」という叫び声にかき消されて「他にもっと有意義に教育予算を使いたい」と主張した町長が過労死し、まともな論議にさえならずにご破算になった。つまり、
「学校給食」とは子供の養育を手抜きしたい親に対する単なる行政サービスに過ぎないことが図らずも実証されてしまったのだ(と「プロ教師の会」の河上亮一氏は言っている)。政治家は選挙のこともあるし、うっかりそんなこと言い出せないのは当然だな。

 さて、小学校卒業以来そんなもの忘れていた俺は、学校の教師になった初日にこの「学校給食」に遭遇し、愕然とした。その第一印象は、
「文明に対する破壊工作」である。そもそも焼け跡派の両親に躾けられた俺は、食い物を「まずい」と思うことが基本的にない。人の作った料理を「まずい」と口に出して言う奴を「下品で低級な人間」として軽蔑するだけの、まっとうな分別も備わっているつもりだった。事もあろうにその俺が、メニューの巡り合わせもよくなかったのかもしれないが、この食事を「なんじゃこりゃ!まずい!喰えたモンじゃない!」と感じちゃったのだ。腰のないパスタともうどんともつかない変な麺を、安っぽいメラミンのカップによそってある乱暴な味付けのつゆにつけて、というか混ぜ合わせて、しかもそれを先割れスプーン一本でやらかすなんて、とてもじゃないが文明人のすることではない。まさに野蛮な世界!!中学生ってこんな事やってるのかぁぁぁぁ!!まあ、俺は講師として中途で採用され、勤務初日というのにケダモノのような2年生と初対面してめまいがするような授業をしてきたすぐあとだったから、余計マイナスの印象が強かったのかもしれないが…。
 それにしたって、給食って「望ましい食習慣」とかそれなりの意義があるんじゃなかったのか?第一、食生活って、人間が作り上げてきた「文化」じゃないのか?こんな「上品」とはほど遠い、「洗練」なんて薬にもしたくない、「マナー」なんて死に絶えてしまったような、これが人間の食事と呼べるものか?「衣食足りて礼節を知る」というが、衣食が足りなかった時代の礼節がそのまんま保存されているのか?
 だが、その情けない食事を、いかにも品のよい初老の紳士、という雰囲気の校長先生が黙々と進めているのを見て、俺はさらに愕然とした、というか絶望感を持ったというか。(そのときに俺の脳裏に浮かんだ言葉は「この人は殉教者だ!」であった。)学校ってトンデモナイところだ~~!!何で俺ゃ教師になっちまったんだ~~!と、当時デモシカ気分バリバリの俺は思ったものである。



 でも3日目には慣れました。



 さて、俺が教師になったのは昭和の最後の頃。今では、給食がここまでさみしい状態というわけではないであろう。先割れスプーンも減り、メラミンのカップも(中学校では)強化磁器に変わり、表面上バーバリズムも少しは身を潜めたようだ。さらに俺は大きめの箸箱の中にはし、スプーン、フォーク、ナイフを入れて持ち歩っている。
 しかし、通常の職業人ならあり得ない問題が給食にはつきまとっている。それは、「教師には昼休みがない」ことである。これにはさすがに3日で慣れるわけにはいかなかった。だってお昼は仕事は一休み、なんてアッタリマエの常識、生活のリズムそのものではないか。だが、昼飯を食う時間は教員にとっては「給食指導」の時間であり、れっきとした勤務時間として規定されている。俺たちは4時間目の終了チャイムが鳴るやいなや、総出で配膳室や教室にすっ飛んでいく。そして、当番を叱咤して事故の無いように準備を監視しつつ手伝い、マナー違反がないように目を光らせながら喰うモンは5分以内にかっ込み、さぼって逃げ出そうとする当番を追いかけて後片付けをさせる。さらに至急の学級事務なんかを片付けつつ、すり寄ってくる生徒たちの話を聞き、悪さをした生徒を呼び出して怒り、提出物を出し損ねている生徒の注意を喚起し、委員会を招集して仕事を指示し、場合によっては緊急の会議もあり、4時間目と5時間目の間の60分間はまさに戦場のような忙しさ。でその分の休憩時間も書類の上だけで、現実には担保されていない(その書類上の休憩時間も廃止するようにもうすぐ労働基準法が改悪されるということだ…?)。
 実は、産休代員として2校目に行った中学校の自治体は、学校給食が導入されていなかった。そこでは生徒は弁当を持ってきたり、出入りのパン屋さんで購入したりと、子供たちは自分で昼飯に責任を持ち、先生たちも仕出しや持参の弁当で平和にお昼ご飯を取っていた。給食のない勤務校は後にも先にもここだけだが、「学校に給食が無くたって何にも問題ないじゃん、というかこっちの方がいいじゃん」と今でも思う。それなのに、当時その自治体に住んでいた俺は、回覧板で回ってきた「××市でも学校給食を!」という署名活動に署名しちゃったよ、近所づきあいで。情けないのう。

 繰り返しになるが、「給食なんか無くたっていいじゃん」という意見に対する反駁は、基本的に「お母さん方が昼飯を用意するのが大変だ!!」というものしかないはずだ。はっきり言って、自分の子供の飯ぐらい自分で責任を持つ、という親の義務を肩代わりしよう、というのがこのご時世にそんなに大事なことなのかねぇ。実際、子供たちが高校生になれば皆さん弁当持たせてるんだから、無理なわけないじゃん。それに、給食さえなければアレルギーの子供への対応とか(これは命に関わる重大な問題)、給食費の不払い問題とか、すべて雲散霧消して、学校教育はすごくスリム化され、肩の荷が下りると思うけどなあ。
学校給食関係者は、何だのかんだの、と学校給食の存在意義について理屈を持っていて、それは俺も知っているが、すべて昨今の官僚政治と同じで、後付の理由としか思えない。特に、ネグレクトの家庭みたいなところで喰うものも喰えない子供はどうする?という問いかけも、給食がないほうが対応が簡単、というか自由になるような気がするのだが、どうなのだろうか?

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子供に言葉をしゃべらせろ

 日本中の中学校で、毎日フツーに繰り返されている場面を一つ紹介しよう。

 何かの当番の生徒が、職員室に入ってくる。そして、担当の教師のそばに来て叫ぶ。「センセエ~、カギ!!」「はいよ」先生は鍵を渡し、生徒は職員室を出て行く。

 絶対許せないでしょ??俺は許せないんだよ!何、センセエ~、カギって?俺は極力突っ込むことにしている。
まず、多少憮然とした色を混ぜた冷静な声で、「先生は鍵ではありません。」
生徒(少しあわてた声で)「先生、鍵ください。」
さらに憮然とした声で「え?やるの?」
生徒(やや冷静さを取り戻し)「鍵を貸してください」
そこでさらに突っ込んで「どこの?」「放送室の!」
(本当はここでさらに「放送室の鍵です、でしょ」といじめてもいいのだが、まあその辺は状況に応じるとして、)一応少し機嫌を取り戻した様子を声に混ぜて「じゃ、はじめから言って。」
「先生、(~~~で使うので、)放送室の鍵を貸してください!」

これを書いてて、俺って我ながらなんて嫌な奴だろう、と思った。少なくとも生徒の目にはそう映るだろうな。文字にするとホント、ヤな感じだ。そして、実際には「センセエ~、カギ!!」で渡しちゃうことも少なくはないのだ。だが、やっぱり立場上こういうのを許しちゃダメでしょう。嫌われようが何しようが、関係ないです。というか、カッコイイ言い方をすれば「こういう何気ない場面にも生徒を教育するチャンスが転がっている」ということだ。しかも、放っておけば学校そのものの言語環境だって次第に悪くなっていってしまうのだ。

負けるな、俺!生徒に嫌がられることを恐れるな!生徒が日本語をちゃんと話せるようにしてあげようじゃありませんか。

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音楽準備室にコーヒーの薫り高く

 電熱ポットと一杯ずつ使い切りのドリップタイプコーヒー(キリマンジェロ)、コーヒーミルク。
 俺の空き時間は、薫り高いコーヒーをいれることで始まる。ん~~いい香り。ホッとするぜ。

 これに関してはかなり賛否両論とは思うが、俺はわざと4階の音楽準備室でコーヒーをいれるのだ。当然香りは残る。生徒の鼻にもつく。授業の時に、「よしっ、男子パートは準備室で音取りだっ!」な~んてこともしょっちゅうだから、当然生徒は、「あーコーヒーのにおいだー」「いいな~」なんて言ったりする。まあ、俺も、コーヒーって、味はともかく(難しいようだ)香りだけは蠱惑的だと思うね。毎朝出勤して職員室で用務員さんが落としているコーヒーの香りをきくと、心が騒ぐのは確かだ。
 で、俺はそれをわざと生徒にわかるところでいれる。なんのために?
うらやましがらせるためさ!
イヤ、ホント。なんっちゅうクソ教師だ、と普通は思うよね?

 日本で、教師と生徒、というより、「大人と子供」が区別されなくなって久しい。いや、区別されないことを疑うことすら、誰もが忘れてしまった。「教師だって生徒だって同じ人間じゃないか!」という一見誰もが正しいと感ずる言説によって、どれだけこの国の躾が後退していったことであろうか。俺が声を大にして言いたいのは、「教師と生徒は同じ人間じゃない!」ということだ。生徒は修行中の身、教師(大人)はそれを教え導く立場である。同じはずがないでしょ。区別されなければいけない。生徒がそう思うだけではなく、教師・親も含め、大人社会全体がその考えによって子供を導かなければならない。

特に、真夏になると頭をもたげてくるのが、「生徒が暑い教室にいるのに、職員室だけ冷房をつけるなんて私はイヤです(けしからん・気に入らない・果ては、申し訳ない、なんて大バカもいる)」という間抜けな教員の発言である。特に、管理職がそういう偽善的、というより偽善そのもののことをおっしゃるのは、実に腹立たしい。生徒が暑がってるときに教員が涼んでいて何が悪いんだい? というより、たとえずっと職員室にいる人が冷房病に悩まされようと、職員室はガンガンに冷やすべし!というのが俺の意見だ。なぜか。
教師と生徒は違う、ということを明確にする絶好のチャンスだからだ。うだっている真夏に生徒たちが用事で職員室に入ってくると、「ひゃ~~!す・ず・し・い~~~」などと騒いでなかなか立ち去らない。そこで、「涼んでいたければ、はやく大人になれ!用事が済んだらさっさと出て行け!」という(罪悪感を押し殺した)一言が大事なのだ。
(しかし、現実にはこのような指導はほとんどの中学校で不可能である。それというのも、荒れた生徒たちが職員室に居座るつもりで入り込むと、簡単には排除できないからだ。下手に実力行使などを試みようとすれば、警察沙汰になる可能性も高い。)

 これは大人と子供の関係の中で、いつでもどこでも重要な躾の一つであろう。たとえばアメリカの大学では、よく教授が学生たちを呼んでホームパーティをやり、生活水準の豊かさを見せつける、という。うらやましかったらおまえたちもしっかり勉強して、こんな生活を自分の手でつかめ、というメッセージなのだそうな。
 日本だって、そういう躾は昔からあった。夕飯の食卓に父親だけ一品多くつく、とかね。子供をはやく寝かして親だけお茶菓子を出して食べるとか。うっかり話しかけて「大人の話に嘴をつっこむな!」と怒鳴られたりとか。「うらやましければオマエも先生になりな」という台詞は俺自身ガキの頃に学校で何度か聞かされた記憶がある。(それで俺が教師になったわけでは、絶対にない!)
 そういう躾が消えたことで何が起こったかは今さら俺ごときが言うほどのことではないであろうが、つまり子供たちが精神的に大人になろうとするきっかけを失ってしまったのである。結果、30代40代の「図体大人・精神ガキ」が、現実に世の中にごろごろしていて、自己チューなことをわめいているではないか(ex.モンスターペアレント)。
 子供たちには、「大人がうらやましい」という感情を植え付ける必要がある。それは「大人になったらああしたい、こうしたい」という夢にもつながっていく。
 だが、「教師だって生徒だって同じ人間じゃないか!」という思想は、大人と子供との間にあるはずの壁を取っ払ってしまった。これは歴史的に見てもここ数十年だけの「ビョーキ」といえる。大人と子供が同じなら、責任のかかってくる大人の方が単純に「損」だろ?俺だって、どっちか選べるなら、子供の方が楽でいいさ。

 だけど子供たちに「大人になりたくない」なんて思わせといていいわけがない。そのためには、良くも悪くも大人が範を見せねばならない。子供が「大人っていいなあ。はやく大人になりたい!」と思わせなければならない。それで、この狂った世の中のへのささやかなささやかな抵抗として、俺は音楽準備室で薫り高くコーヒーをいれて飲むことにしているわけだ。「蟷螂の斧」とはまさにこのこと。セコイよね~~

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「茶髪」って迷惑なんだよ!

なんか、どこだかでまた、茶髪の生徒の髪を黒く染めちゃった、といって問題になっていた。人権救済がどうだか、って親も騒いでいるようだな。くだらない奴らだ。
よく、
「茶髪が何で悪いんですか。誰にも迷惑かけていないじゃないですか。」
というようなことを言う低脳なのが親にも生徒にもいる。そういう奴らは、表面的・即物的にしか物事を考えられない、薄~い精神の持ち主ばっかだ。まず何もわかってないな。
茶髪がいかに中学校に迷惑をかけているか。
以前にも書いたが、「服装の乱れは心の乱れ」という事実を認識できない教師はまずいないはずである。段階的にいえば(多少の前後はあるが)、上履きのかかとを踏みつぶし、制服を着崩し、大きすぎるセーターを制服の裾からはみ出させ、眉毛を細く整え、禁止されているカーディガンにいつの間にか着替え、変な香水を使い、バレないように少しずつ髪の毛の色を変えて教師の出方を窺う。そして俺たちがふと気づいてみると立派な不良の一丁上がりである。
 こういう子供たちはまず間違いなく家庭に問題がある。父母の仲が悪く夫婦生活崩壊→家庭崩壊、というのが一番よくあるパターンだが、そのほかにもちょっとした生活環境の変化で「心が乱れ」てしまった生徒の中から、服装を乱し始めていく者が輩出する。第一、家庭が崩壊すると、洗濯が行き届かなくなって不潔な雰囲気を醸し出し始めることさえあるのだ。これは本人には責任がないのだから可哀想ではある。だが、そこから開き直った「服装の乱れ」も始まる。

「茶髪」はそういった服装が乱れてゆく経過のうちの単なる一つである。つまり、これだけで終わるわけではない。この先さらに様々に乱れてゆく。また、心が乱れた者が乱すのは服装だけではない。行動もだ。だらしない態度。ぞんざいな言葉遣い。学習意欲の喪失。時間や行動規律を守ろうとする規範意識の喪失。そして無断遅刻・無断早退・喫煙・授業エスケープ・ケータイを持ち込んで使い放題、などの問題行動。
 さらに困ったことに、家庭に居場所のない(学校に来ないと昼飯も食えない場合も多い)彼ら(彼女ら)は、ほぼ絶対に休まず学校に登校して迷惑を振りまくだけでは飽きたらず、仲間を求め、まわりの連中を巻き込もうとする。そして、やはり生活環境に多少の問題を抱えながらも何とかけなげにがんばってきた一部の「普通の」生徒が、そいつらの「フォースの暗黒面」に染まっていくのだ。それが増殖するのに手をこまねいて見ていればどうなるか。簡単なこと。「荒れた中学校」のできあがりである。(もちろん、様々な環境の違いで適当なところでとどまる場合も多いが。)

 そんな大げさな…と笑うか?
俺たち教師の中にもたくさんいたよ。そういう危険信号を「受容的」にとらえてあげて、「教育相談的立場」で「生徒のいうことにじっと耳を傾けて」あげて、「人間的」に対応していったバカが(一部の教員からは金八教師なんて揶揄されてたこともあったな)。その結果、上述のような有様となって日本中でいったい中学校が何校、泣きを見たと思っているのか。数え切れないんじゃないのか?しかも、荒れ始めると速いよ~~~!半月もあれば手の施しようがなくなる。坂道を転がるように授業は崩壊し、施設設備は破壊される。そして、その結果泣きを見るのは誰だ??
真っ当な生徒だよ!!
コイツらの学習権が甚大な被害を被るのだ。

 なお、ただ単に洒落っ気で髪の毛をいじる、何も困ったところのない女の子、なんてのもいるにはいる。だが、これも困る。上述のような現象が現れやすくなる触媒の役目を果たしてしまうからだ。

たかが「茶髪」がいかに学校に迷惑をかけることになるのか、これでわかったかね?だから、教師は警戒している。ちょっとしたシグナルにも神経をとがらせている(シグナルが読み取れなかったのか、とあとになっていわれるのも癪だし)。そして些細なことにも文句を言う。場合によっては、半強制的に黒く染め直すことだってするさ。俺自身も何人かやったよ。髪の毛の色をいじるな、と言いながら教師自らが「染め直す」という形でいじっている、という矛盾にさいなまされながらね。
 そういう嫌な思いをしながらキミタチの大事な大事な子供たちが通っている学校の学習環境を日夜守っているというのに、人権侵害もないもんだ。そんな文句を言う前に迷惑かけたことを謝れよ!!と言いたいね。

(生徒の「人権」についてもそのうち気が向いたら書こう)

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

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