最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ボランティアの効用?

 ボランティアについては、最近かなりやかましく言われるようになって、上からもやたらにやらせろやらせろと言われるし、高校なんかでも入試の時に評価するようになって、調査書にもそれなりに克明に記述するようになった。以前、阪神淡路大震災の時に現地へ行ってボランティアを、それも3週間もやってきちゃった、という行動派の中学生までいて、我々を驚かせたものだが(授業はどうなったんだ)、そういう時代なのか?

 この傾向にはいろいろと議論が多い。まず、「ボランティア」というのは無償の自発的な行為なんだから、強制的にやらせたり出席を取ったり評価するようなことはオカシイ、参加するかどうかはあくまでも本人の意志に任せるべし。もう一つは、強制だろうが何だろうがやらせることが先決、まずは何をどうするかというのを体験させるべし。という二つの意見があって、教員の間でも意思の統一をするのはそう簡単ではない。

 私はもちろん後者の説をよしとするが、前者の説を支持する人たちってヤバイよ。特に教育関係の人だと、どういう神経をしているのだろう。確かに一見すれば間違いじゃない。崇高な心の存在を信じる大人の態度ってヤツですかね。だが、相手は子供だ。それも、焼け跡闇市時代の「小さな大人」ではない文字通りの子供。平和で豊かな時代に生を受け、貧しさというものを知らず、ゲームばっかりやってて読書による疑似体験すら乏しく、助け合いの精神なんて薬にすることもなかった、「大きな子供」である。この人達は何よりも自分が大事、といわれて育ってきた。他人様のために何かをするなんて発想はない。「ボランティア」やってね、と言われてもほとんどの生徒は呆然と立ちつくすのみ。大事なのは「無理矢理やらすこと」なのだ。
「そうかぁ、こういうことをやるのか。じゃ、俺やりたくねぇ。」というならそれはそれでけっこう。知ることが大事。教えることが大人の義務。だって教育なんだから。

教育の成果はすぐには出ない。今日「やりたくねぇ」と言った生徒が10年後20年後の何らかの状況でこの時のことを思い出したときに何と思うか、それが教育の成果ってもんだ。だから皆さん、中学生には「ボランティア」、堂々と強制しましょう。内申書で脅しをかけたって結構!ためらう必要なんかありません。
スポンサーサイト

テーマ:子供の教育 - ジャンル:学校・教育

オトーサン先生は女子生徒に触れられない

 先週末、陸上競技の大会があって、私も役員にかり出された。女子の800m走の時のこと。一人の3年生女子が400mトラックの2週目に入ったところで走れなくなって止まってしまった。(800mというのは中学生の女子にとってはかなりハードな競技と言える)そして、コース上にヘタリ込んでしまったので、私(音楽の教師)ともう一人の監察要員(50代男性教員:非体育教師)が側に行って様子を見たが、本人はもう全くグロッキーである。空は快晴でカンカン照り、さっさと涼しいところに運ぶべきであろう。脳裏に救急時の怪我人病人の運び方のイラストがあれこれと思い浮かぶ。腕力に自信があるなら、お姫様だっこでもして連れて行ければ早くていい。
 ところが、お互い、手が出ないのだ。二人して、近くにいる生徒に「女の先生を呼んできて」などと、トンマな指示を出すばかり。情けないのう。そのうち倒れた生徒と同じ学校の子が駆けつけてきて「大丈夫?」などといって、ジャージを使って扇いだりしているが、とにかくそこから動けない。本人は立ち上がれないし…どうすんだ!?

 どうやら、俺たち男性教員、特に、似たようなお年頃の娘さんを持つ年代は、心理的に禁止命令が働いて女子生徒を触れないのではないだろうか。
 そもそも、家に帰れば「何よ、オトーサンなんか、ふん」みたいな娘がいて、それはまるで我々にとっては怒ったときのハリセンボンかヤマアラシである。2m以内立入禁止だ。そういう女を間近に見ながら暮らす者として、うっかり中学生の女子なんかに触れるなんて思いも寄らない。本人だけでなく、まわりの口にも戸板は立てられないし。うっかりしたことをして、「やだー先生、エッチー」なんてみんなに言われたらあとあと照れくさい。
 だがそんなことよりさらに深刻なのは、最近の教職員の不祥事続きである。馬鹿なクソ教師がやれ盗撮でございますの、買春でございますの、教え子に手を出して青少年健全育成条例違反でございますの、と逮捕される話は枚挙にいとまがないほど。そのたびに、(ああ、俺も気をつけなくちゃ、万一のことがあれば女房子供は路頭に迷い、ローンは返せず退職金も出ず、職場は石持て追われ名誉や信用は完膚無きまでに破壊され…)と心ばかりか体まで震えるほど。恐ろしや恐ろしや。その上社会一般からの教師に対する目も冷たくなる一方。俺たちは四面楚歌の状態なのさ。だから、髪の毛一筋ほども疑われないように、と日々強く念じているのだ。
 つまりそんなことだから、いざという大事なときにもビビっちまって、女子生徒一人まともに救急措置を施すこともできない。以前はそんなことなかったんだけどなぁ。

 だが、ひょっとしてこれってすごくヤバイことじゃないか?適切な行動がテキパキととれない人間なんて、そこにいる意味ないじゃん。監察の旗振りだけなら生徒だってできるよ。幸いその子は一時的な症状のようだったからよかったが、緊急を要する事態だったらどうなったんだろう、と思うとゾッとする。

 教員の資質とは、お偉い人が言うような、大学の履修を増やしたり、研修を増やしたりすることで育てられるのではない。やっぱり社会や地域が一緒になって育てるものなのだ。俺たちにもっと温かい目を注いでくれ!自在に行動できる社会的コンセンサスを与えてくれ!

テーマ:出来事 - ジャンル:学校・教育

置き勉と学力低下の微妙な関係

 今の中学校は、俺たち「おじいさんに片足突っ込んだおじさん」の頃とはかなり様変わりしているのだが、その中に「置き勉」をめぐる環境の変化がある。「置き勉」とは、まあようするに教科書だのノートだの、勉強道具を学校に置きっぱなしにすることで、家に帰っても勉強しない、できるはずがないというわけで普通は劣等生に見られる現象であったものだ。私なんかも、週に一度書道の時間があるときなんかはカバンが重くて手が痛くなり、苦労したことを思い出す。これが今の中学校では、
ち・が・う
置き勉しない生徒なんていないのだ。

 2年前、私の担任している生徒の中に、「置き勉をしない主義」の男子がいて、級友達の間で話題になっていた。「カバンが重い」「掃除当番が迷惑」というので話題になっていたのだ。私も持ってみてビックリ、重いなんてもんじゃない。まるで米俵か、鉄アレイでも中に入っているようだ。
「一体何が入っているんだ?出して見せてくれ。」というわけで(もちろん本人が快く承諾して)、ある日の帰りの会の後、中身を出してみると「これが社会の教科書(2冊)と資料集と地図帳とノートとファイルとワークと色鉛筆、これが国語の教科書と文法ノートとノートと漢字練習帳と漢字用ノートと資料集とファイルと…それでもってこれが技術家庭の……。」と、説明付きでキリもなく出てくる。「これ、省略できないのかよ」「無理ですよ。全部必要です!」……「うう……確かに…。」つまり、我々は簡単に「置き勉をするな」と指導していても、そんなこと現実にはとっくに無理になっていたのだ。彼は自転車通学だから何とかなるが、それでも教室から自転車置き場まで持って歩くのは大変だ。ましてや、徒歩通学者が置き勉をしないで済むなんて絶対にあり得ない!!ということが明白になってしまった。「置き勉」が通常のどの生徒にとっても「必要不可欠」になるのも当たり前である。

 この状態をどう見るべきか。
 まず、現代の教科書は全ページ色刷りというのが主流であり、俺たちの頃のようにわら半紙に毛の生えたような軽い紙に印刷されているわけではない。
 第2に、世の中が豊かになって、資料集なんかもほとんどの教科で副教材として準備されている。集金した学年費で購入するのだが、これがまた、いい紙を使っている全編色刷りの豪華本ばかり。
 第3に、プリントのファイルの多さがバカにならない。その理由は簡単、「ゆとり教育」とやらで授業時数が減った結果、教える内容を消化しきれなくなってしまい、生徒にノートを取らせる時間がない。だから、板書の内容を最初から印刷しておいて肝心な言葉だけをカッコ付きで埋めるようにして、時間を省いているのだ。ましてや、グラフとか図なんかは絶対描いてる時間なんかない。教科によってはファイル2冊なんてのもある。一つの教科でちょこっと1冊増えただけでも全教科では9冊。毎日の授業で持ち歩くのは4~6冊であり、生徒のカバンを圧迫する。

 しかも、ここにも数字に表れない「学力低下」の原因が転がっている。つまり、生徒達が字や図を書く「量」というのが壊滅的に少なくなっているという実態が、想像できるだろうか。指先を動かさないんだから脳みそだって動かないんだよ!とにかくこの「ゆとりカリキュラム時代」の子ども達が大人になったときに「あいつはゆとり世代だからね」なんて、後ろ指さされるようなことにならなければいいんだが。

 「ゆとり教育」と言い始めたとたんゆとりがなくなった、というのはよく聞くが、ゆとりがなくなったのは生徒の背中もだったんですね。こんな世の中に誰がした!!

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

いやがらせとしての盗難

 先日、近隣の市のある中学校で盗難事件があった。夜、職員室に賊が侵入したのだが、盗られたものが恐い。職員の机の中にあった現金というのなら、たまに聞くことなのだが、同時に生徒の家庭調査票がやられたというのだ。「家庭調査票」とは、子供を学校に上げた人ならわかると思うが、生徒一人一人の名前・生年月日・住所・電話番号から、家族構成や親の職業・趣味特技・自宅周辺の地図などまで書いてある上にその生徒の顔写真が貼ってあるという例のあれで、4月当初に新入生は新しく書き、在校生は一度返却されて変更点を追記するヤツだ。

 そんなものを盗ってどうするのだろう。かなり以前から、卒業アルバムの住所録など、名簿みたいなものが闇世界で取引されるようになり、アルバムに住所を載せるのをやめるとか、クラスの緊急連絡網を発行しないとか、学校でもさまざまな対策が取られるようになっている。それでも、親が留守の家に電話をかけて、言葉巧みに子供から級友の電話番号を大量に聞き出す、という事件は未だに頻発している。そういう闇世界に出回っていくのだろうか。それとも、かわいい女子をピックアップしてストーカーでもするのか。(だとしたら深刻だ。)

 もともと何年か前から、帰宅途中の教師の車を狙って成績表やその原簿などを盗む車上荒らしも大変増えている。中には自宅に盗みに入られて、成績処理関係のものを盗まれたという事件もあった。これなんかは個人情報が流れていくという他に、影響があるわけでもなく(あるのかな?)まさに学校憎しのいやがらせでしかない。このごろでは、教育委員会も業を煮やして、そういう個人情報関係のものの盗難にあった教師にペナルティを課すようになってしまった。
 物理的に絶対に勤務時間内に終わるはずのない仕事を常に抱えていて、残業代も出ないシステムなのに夏至の日でも真っ暗になるまで仕事をし、挙げ句の果てに風呂敷残業を持ち帰る真面目な教師がなぜそんな目に遭わなければいけないのか。

 結局、この「窃盗」は金が主たる目的ではない。「いやがらせ」であり、愉快犯である。家庭調査票が盗まれた学校では、それを新しく作らなければならないし、そのために地域の親たちに与える不安だって馬鹿にならない。我々の学校でも、「家庭調査票」はいつでも見られる場所から鍵付きの倉庫に移された。何のために存在するのかわからない。しかも、退勤するときはめいめいの机の引き出しに鍵をかけることになった。面倒くさいったらありゃしない。
 世の中全般に言えることだが、何かというと学校は悪者扱い、学校は批難すべし、という風潮がドブ泥の臭気のように日本に漂っている。学校に対してよからぬ思いを持ってるヤツがいっぱいいるのはわかるけど(そういう自分も親の立場としては激しく持ってるからね)、それが仕事の足を引っ張る、このようなモーメントに結びついているように感じるのは私だけであろうか。

テーマ:なんでこーなんの? - ジャンル:学校・教育

あり得ない!ケダモノ中学生

 近所の人からEメールで苦情が来た。
ウチの生徒同士が近くの公民館で……ようするにセックスをしているところを見てしまったというのだ。それも女子が男子の股間に顔を埋めて、など生々しい内容。しかも初めてではなく、最近では近所でも噂になっているという。そのメールでは、今後自分の子供を通わせる中学校なのにそんなことでは困る、性教育を見直してもっとしっかりやってほしい、と結んであった。

何をか言わんや…。

 実際、最近の中学生はそっちの方面はかなりお盛んにやっているのである。私が担任した生徒でも、中3の秋に妊娠してしまって本人も気付かず高校に進学してしまい、入学してすぐにわかって退学、7月に出産、という開いた口のふさがらない女子がいた。以前に勤務していた学校でも教員が気付かないだけで、誰と誰、誰と誰、みたいに噂に上っているバカップルはいくつもあった。ここ何年かでも、それ系のトラブルは年に2~3回は必ず聞く。

 中学校で性教育? 「性」についてはかつてのような、子供が近寄りがたいオーラを持った隠微な秘め事ではない。テレビでもネットでも子供向けの漫画雑誌でも、ようするに見放題。馬鹿馬鹿しくもグロテスクな場面も、正常なものも、一緒くたに並べて白日の下に曝されているのが現実である。この状態でどういうことをすればいいのだろうか。
 ああだから、こうだから、恐いんだから、責任なんだから、といくら言って聞かせたところで、「快楽を追い求めることが至上の善」という大人からのメッセージを全身に受け止めながら育った子ども達の心に届くために、どんな言葉があるというのか。要はモラルが崩壊しているのである。「糠に釘」なんですな。

 そもそも、この話は性教育云々ではなく人々の道徳観や遵法意識の問題である。学校現場でいえば「生徒指導」の領域だ。まずはそのバカップルを特定し、双方の親を呼んで指導しなければならない。
 さらに(あり得ないけど)公の場に曝して恥をかかせ、最終的には二人で無理心中でもすれば少しは世間の状況が変わるのかな…するわけ無いね、恥ずかしいことだと思ってないんだから。
 不遜なことを!と目くじらを立てる人もいるだろうが、だったら、「私は好きな人のために、結婚までキレイなカラダでいたいの」なんてことを今どきいう女がいたらどんな反応をされるか考えてみればよい。揶揄の対象にしかならないでしょ?これだけメチャメチャに崩れてしまった社会一般の「貞操観」がそのまんま中学生の心の中に浸透しているのだ。どうすればいいというのか、案があったら教えてほしい。第一、これって中学校に責任あるのか?!

 現状では、というより、はるか昔からこの問題はあくまでも「個人の問題」である。その判断の基準になるのは「しつけ」や「社会的常識(恥を知る心とか母性の保護など)」であり、それを人にたたき込むのはやっぱり学校ではなく、家や地域・社会・国である。その上位組織(地域・社会・国)が全く役にたたない現代、頼りになるのは「家」だけだ。上述の「私は好きな人のために、結婚までキレイなカラダでいたいの」という、現代では馬鹿にされるだけとなってしまった貞操観念が、自然に人の心に染みついてしまうような世の中にしなければ、結局は所かまわずこんなことをやりまくるケダモノ中学生に付ける薬はないのだ。

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

ジェンダー教育

 前回、性差別に関わる微妙なことについて書いた。誤解のないように言っておくが、私は常に女性を尊敬していて、次に生まれ変わるなら絶対女だ、などと願ってさえいる者である。未だに女性を蔑視する感覚が洗濯しても落ちない布きれのように染みついている一部の馬鹿と一緒にしてほしくない、という程度には思っている。(そういう馬鹿とは、時として「嫁の分際で」のような暴言を何の心理的抵抗もなくさらりと言ってのけたりする人種だ。)

 さて、最近は廃れてしまったが、「ジェンダーフリー」というキチガイの戯言が公的機関までをも蝕んでいる時期があった。一時など、ある低脳な校長が音楽主任であるところの私にむかって、「ウチの学校の校歌は「師を兄として」という文言があるが、これはジェンダーフリーの観点から見て望ましくない、なんとかできんかね」などと言ってきたりした。(もちろん断った。当たり前だ。第一、著作権法に抵触するじゃないか。)
 そして、「男女混合名簿」とか、誰彼かまわず「さん付け」で呼ぶとか、理系大学に進む学生に女子の割合が少ないのはジェンダー教育のせいだとか、単に現場を混乱させるだけのくだらない雑音や実践が教育現場に入り込んで、文化を破壊しようとした。そんなにジェンダーがキライなら、男子トイレと女子トイレの区別があるのもおかしいよね。修学旅行の部屋割りも入浴も男女混合にしたらどうだろう、俺が生徒だったら喜んじゃうけどね。
「ジェンダーフリー」という言葉はさすがに大方もオカシイと気がついたようで、何年か前に政府でも「公にはその言葉は使わない」と発表したので、私も胸をなで下ろしました。

 ま、それはともかくつい最近、「殺人が悪いことだとはわかっているけど、この女は殺すしかないと思いました」と言って自分の妻を殺害した男がいて、話題になった。その女は、すごい押しかけ女房ぶりを発揮して、見初めた男をかなり無理矢理旦那にしてはヤキモチを焼いて、信じられないような暴力をふるっていたらしい。二度目の夫(殺害したのは3度目の夫だってさ)の提供した写真ではメチャメチャに叩き壊された家具や電化製品が写っていて驚いたものだが、鉄アレイで人を殴ったりするらしい。信じられない自分勝手ぶりだ。
 だが、冷静に考えてみると、この女こそ男女同権時代の教育の被害者とは言えないだろうか。男と女は同じではあり得ない。絶対に別のものとして考えなければいけないのに、結局、間違った男女平等教育が、結果的に女性をちやほやするという現象とばかりなってはいなかったのか。そして、何か、越えてはいけない垣根を知らないうちに踏みにじって越えてしまう女性が相次いで出現する…

 この殺された女を彷彿とさせる女子生徒が、まあ現在のところは珍しいとはいえ、中学校でも散見されないわけじゃないので、事件の背後にあるこの人達の育った環境や教育には関心を持たざるを得ないですな。

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

幼少のしつけの重大さ

 つい最近、あのハマコー先生が出演するグルメ旅番組みたいのを見た。相変わらずのお人柄がにじみ出るなかなかスリル満点の番組で、楽しめた。
 一つ気になるところがあった。それは、食事をいざ始めよう、としたまさにその時になって急にハマコー先生が「手を洗わなきゃ。」と言いだしたことである。一緒の出演者が、「いいじゃないですか」というのもものともせず「食べる前には手を洗うんだよ」と、手洗い場に直行。ある意味自分勝手にもうつる。

 しかしこの先生、幼少期に受けた躾で、どうしても手を洗わずにはおれんのだろう、と私はその姿を見ていて直感した。親だか祖父母だかが、とにかく繰り返し繰り返し「食べる前には手を洗え」と言い続けてきたのだ。何と立派な家庭であろうか。そして、言われ続けてきたことで、あんなお年寄りになっても、食べる直前になると、手を洗わずにはおれない精神状態になってしまうのだ。自分の食してよいものが目の前に現れると、脳みそで何も考えなくても条件反射で自然に手を洗ってしまうのだ。これこそ、躾・教育の成果でなくて何であろうか。

 やらなきゃいけないことをやらなければ不安な精神状態に陥る。やっちゃいけないことは見てる人が誰もいなくてもやることができない。そうなるまでしつこくねちっこくたたき込むのが、親というものだ。それが本当の躾だ。

 しっかりした躾を身に付けて中学に上がってくる生徒は明らかに減っているぞ。世の親たちよ!もっと責任を持て!

テーマ:子育て・教育 - ジャンル:学校・教育

女の腐ったの

 かつて、不甲斐ない男をなじったりするときによく使われた言葉に、「女の腐ったのみたいに…!」というのがあった。今ではほとんど使われることがないであろう。何しろこんな世の中だからね。うっかり口走れば人格を疑われてしまう。
 この言葉、もともとは男を男らしく成長させるために、その対極にある「女」を持ち出したものだろうと思っていた。もちろん、男尊女卑が当然だった社会においては誰も疑いを持たず、母親が男児を叱責するときにも普通に使われる言葉であった。実際私も子供の頃、そういう言われ方をすればこの上ない屈辱を感じたものである。

 まあ、本来女性の方が「生物」としては完全な形を持ったもの、男は生物としての繁殖機能の一部だけが独立分化した付属品のようなものだから、「生物」として最も大切な仕事、すなわち子を産み育てる女性を男が保護するのは当たり前だ。だから女性がより楽ができるよう、男がより多くの責任を担う方向にこの世の中は進化してきたのだ、何千年もかけて。その中で、「女性よりたいへんな」はずの男がそれなりの能力を身に付けないというのは許されざること、女と同列ではしかたがないではないか、と考えられるようになったのはごく自然なことだ。(これって、フェミニズムの一つの形なんでないかい?)

 さて、時代は「男女同権」「男女共同参画社会」。教育の世界も大きく変化し、男らしさ女らしさを口にするのはタブーになってしまった。「女の腐ったの」という言葉も死語になってしまった。
 ところが、こんな世の中が進むにつれて(中学校教育にたずさわるところの、この)私は、「女の腐ったの」というものには、本来のイメージがあるのではないか、と思えるようになってきた。つまりそれって、こんな女?とまさにいいたくなるような奴が散見されるようになってきたのよ。現場にいない人間には実感できないと思うけどね。

 とにかく自分勝手。頑固。ずるい。甘える。すねる。泣く。いい加減。だらしない。ハッキリしない。一人では何もできない。仲間といると諍いを起こす。ごまかす。嘘をつく。そういう女のイヤなところとされていたものが以前よりはるかに増幅されている。何より空恐ろしいのは、罪悪感がない!
男だって同じじゃないか、という声が聞こえてきそうだが、女子の場合は本当に始末に負えないんだよ。男はやりようによって各個撃破ができるんだけどねぇ、女子は無理。恨みばっか買って逆効果。罪悪感ないんだから。干渉してくる方が悪人扱い。はぁ~、これが「女の腐ったの」ってヤツか、とつくづく思わされる。こういうのが増えてきてそのまんま大人になったら世の中どうなるんだろう?

 男は男らしく、女は女らしく、という教育を家庭・学校・社会という各方面から子供にしつこく教え込んでいく、という営みは壊すべきじゃなかった。な~にがウーマンリブだ!な~にがジェンダーフリーだ!結局はものの本質の見えなくなった馬鹿の、ウワゴトに過ぎなかったじゃないか。
 予言しておこう。今はわからなくても、何年か後に社会そのものが取り返しのつかないダメージを受けることになる。その時にみんな後悔することになるでしょう。
 もっとも、すでに少子化など、その予兆は始まっているけどね。この流れは止められないよ。

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

嫌われ度No.1の教頭

 およそ、ただそこにいるだけで嫌われる人物というのは確かに存在するのだが、それが教頭先生ということになると全く困ってしまう。その教頭は閨閥の力で出世した、と聞いたこともあるが定かではない。まあ、ウチの県のことだから、当たらずとも遠からずであろう。なにしろ、どうしてこんなヤツばっかり次々と「難関の」昇進試験に合格して我々の上に君臨することになるのであろうかというぐらい、使えない奴がすごく多い。中でもこの教頭、はっきり言って頭が悪くて仕事嫌い。愚鈍ってヤツだな。とても人の上に立つ器ではない。いつも鬼瓦のようなしかめっ面で人を寄せ付けず、そばに寄ってくれば強烈なヤニ臭さで気分が悪くなる。もともと教頭は嫌われ役に徹しなければならない損な立場なのはわかっているが、それにしても彼が職員からも生徒からもこぞって嫌われるまでには、そうたいして時間はかからなかった。

 しかも同情されてしかるべきなのであるが(もちろんする気もないが)、彼が新任教頭として仕えた校長が、以前ここで書いた「スーパーマン校長」だったから始末が悪い。とにかく、ありとあらゆる仕事はヒラの職員に振れ、という方針だったから、このヒト、本来自分がするはずの仕事までみ~んなこっちに投げてくださる。こいつと3年間も一緒にいさせられたのだが、これほど教頭らしくない教頭を見たことはなかった。つまり「教頭」としての職分というか、立場というか、校長が施して然るべき「教頭教育」みたいなことがなされていなかった、というより全くエキセントリックな形で行われてしまったということだ。

 そして、自分は朝の登校指導だの、朝読書だの余計な場面に顔を出してはまさに人を咎め立てするために用意されたとしかいいようのない表情で、その場にいる人を不快にさせるのだ。授業にも顔を出すのだが(それはかまわないのだが)、ヤニの臭い、何とかしてくれよ!私はもう半世紀も生きているがとにかくタバコが大嫌いで未だに一度も吸ったことはないし、現代の生徒は世の中がタバコ離れしていることもあって、総じてタバコの臭いがキライなのである。一度なんか合唱の最中に来て、みんな息が吸えなくなっちゃたこともあったんだけど、本人は気付いてない。ホント、今風の言葉で言えば、「空気よめ!」だな。

 それなのに、人に説教するのは大好き。白けた重苦しい雰囲気を自分で作っておきながら、朝の登校指導であいさつをしない生徒を、担任を飛び越して呼び出したり家に電話かけて文句を言ったりして、余計に嫌われる。そしてさらに子ども達はあいさつもしないという不機嫌スパイラルをまっしぐらに駆け下りていく。職員間でも、彼に話しても混乱するだけだから直接校長と話していろいろなことを進めていくのだが、やはり自分が除け者にされたという感覚を持つらしく、何かというと「ワタシ聞いてないよそれ」とおっしゃる。ま、自尊感情強いからこそ教頭にもなれるんだろうけどね。

 この男、二言目には「ウチの学校を市内で一番の中学校にする」と言うのだが、一体何をもって一番とするのか、何がどうなれば一番なんだか、さっぱり具体的なイメージを示すことがない。各方面に何を求めているかちっとも伝わってこないんだよね。ホント使えないよ、この人。今年やっと異動になって、よその学校に行ったけど、どうなったんだか。

離任式という茶番劇

 よその都道府県は知らないが、我が県の学校現場には「離任式」という大馬鹿なくだらない行事がある。
 「離任式」とは、4月の後半から5月の前半にかけて一度前任校に集まり、そこで全校生徒の前でお話をしたり、花束贈呈などのセレモニーをするものらしい。建前上は「事務引き継ぎ」という名目で、ちゃんと出張命令が出て旅費も支給されるという正式なものなのだが、人によってはこの行事を非常に楽しみにしていて、中には全校生徒の前で話をしながら感無量となって涙ぐむ教師までいる。

 しかし私はこの白々しい行事が大っ嫌い。自分の異動の時にはどうやってサボるか、その方法というか言い訳ばかり考えている。初めて「離任式」に参加させられたときは身分が講師だったし、余計な出張なんかトンデモナイ!という零細企業に勤めていた頃の体験も生々しかったから、本当に、「この無意味な行事は何なんだ??」という気持ちでいっぱいであった。第一こんなことやってるヒマに、今勤めているところの目の前にいる生徒の方がずっと気に掛かるし、もう自分と関係ない奴らのことを考えている余裕はない。しかも1/3は卒業と同時に入れ替わっていて、縁もゆかりもない人たち。何か話をしろ、と言われたっていうことなんか何もない。こっちは「シゴト」で異動したんだし、君たちだって新しい環境でやっていくより他ないだろ?後ろ向いてるヒマなんてあるのかよ?百歩譲って、卒業式の前後とか、せめて年度内に行われるんだったら、まだ話もわかる。

 それなのに、こんな無駄な時間のために授業までつぶしてやるなんて不合理きわまりない、と、ある時年度末の「学校評価」に書いたら、会議の進行役が「なんだこりゃ」という一言でスルーしようとしたもんね。で、(あんまりやらないことなんだが)「これは俺が書いたんだけど!」と言って(白状して)趣旨説明をしたら、「ま、世の中にはいろんな考えの人がいるから。」と言われて、やっぱりスルーされてしまった。

 とにかく、最初の時の激しい違和感は未だに自分の中では生々しく残っていて、前任校の離任式は仮病を使ってサボりました。おそらく、次回もそうなるのではないでしょうか。定年退職後の離任式には絶対に出席する気はありません。「キライだから。行きたくないから」と、理由もはっきりと言うつもり。

テーマ:学校行事! - ジャンル:学校・教育

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。