最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

鉄道唱歌

 鎌倉の、鶴岡八幡宮の石段脇の大銀杏が倒れた、というニュースをやっていた。何でも樹齢1100年とか。すごい古木だったわけだ。中央部は腐って空洞になってしまい、ついに巨体を支えきれなくなったということだ。

 この銀杏は何と、鎌倉幕府の第3代将軍、源実朝が暗殺されたときにもそこに立っていて、しかも、その暗殺を主導した公暁がこの木の陰に隠れてみていたという言い伝えがある、由緒ある木なのだ。そして、それは、「鉄道唱歌」の中にも歌われている。

「八幡宮の石段に
 たてる一木の大銀杏
 別当公暁の隠れしと
 歴史にあるはこの陰よ」

 子供たちが小さかった頃に、一度おもしろ半分に「鉄道唱歌」を教え込もうとして、自分も歌詞を覚えようとしたことがある。結局、全部は覚えられなかったが(子供たちはほとんど覚えたが)、はじめの方の大船から横須賀線に乗り換えて、行った先のあたりなので、ここの一節はまだ覚えていた。
 その大銀杏がひっくり返った、というのは残念至極である。またまた歴史の一ページが現物のない文字だけのものになってしまったなあ、という感慨を持ったのでした。

 それにしても、「鉄道唱歌」はすごい。なにしろ、歌に乗せて、歴史も地理も風物詩もみんな織り交ぜ、しかも美しい七五調の文句は日本語教育にもまたとない教材である。これだけでも昔の子供たちがいろいろな科目の勉強に将来的に興味を持つこと請け合いで、まさに明治時代の教育者の、教育に対する情熱や子供への慈愛を結晶化したような一品といえる。そして、こんな歌をのんびり覚えながら授業を進めていくことができれば、これこそ「ゆとり教育」そのものではないか。
 「ユトリ」は今や(特に2チャンネルあたりで)差別用語にすらなっている現状ではあるが、本物のゆとりは昔の学校教育にこそ存在した、という証明になっているのが「鉄道唱歌」といえるんじゃないの?
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年度当初はテスト漬け

 4月から5月にかけてはけっこう授業がつぶれることが多い。8日に入学式があって、そのあとなんやかんやで一週間ぐらいは教科の授業にまともには取りかかれない。副教材だってそろってないしね。そこへ新入生のオリエンテーションとか、健康診断とか(最近は1年生だけだけど心電図までとるんだからね)、いろいろやってるうちにGWになってしまう。実際落ち着いて授業が始まったかな、という頃にはもう中間テストだ。
 そんな困った状況の学校に、さ・ら・に・闖入してくる「行事」がある。「学力診断検査」なる、お上から降ってくるテストである。もともと、ウチの県では4月には郡市独自の共通数学テストがあって、到達度の確認をし、さらに6月に「教研式」という5教科のテストが知能検査とカップリングで行われてオーバーとアンダーを洗い出しつつ(注)、自分の学校の全体的な学力の傾向をつかむ、ということをやってきていた。

(注)オーバー:オーバーアチーバー。知能の割に勉強のできるヤツのこと。親が無理矢理勉強をやらせている、とか、本人の気性として無茶苦茶マジメ、なんて場合に現れる現象。要するに背伸びをしているんだから、学習内容が高度になると、ある時突然ついて行けなくなって何らかの悪影響があるようなこともいわれているが、実際そんな場面は見たことがない。
アンダー:その反対。家庭環境がよくなかったり、本人がすごい怠け者の場合に見られる。こっちは冗談じゃなく要注意人物であることも多い。(俺もそうだった、とあとで高校の教師に知らされた。ま、悪いことはしなかったけどあれだけ勉強サボれば当たり前だな。)


 ところが、ここんとこの学力低下批判を受けて、文科省でも全国共通学力テストなんて言い出したし、ウチの県でも「達成目標」がどうとか、ということで年度当初にやたらとテストばっかりになってしまった。先週はそれで3年生は2日、2年生もまるまる1日授業がつぶれてしまった。これまでやってたヤツに加えてである。

それでも、役に立つんならいいのよ…。

これがまた、全くのトホホなのである。まず第一に、簡単すぎる!何しろ、「これだけはできてなければ困る」というガイドラインに基づいて誰でも80点は取れるように考慮して作ってある問題だからな。制限時間45分のところ、普通の生徒なら15分で完答だし、よっぽどトロい生徒でも25分もあれば終わってしまう。残りの時間は退屈そのもので静粛に座っていなければならない。もちろん、「よっぽど」を通り越してできない生徒は最初から45分間まるまる何もしない。これが1日に5回もやらされることを想像してみてよ!みんなもうウ~ンザリ!やらせてる教師の方だって生徒に気の毒でいたたまれないぜ。
そして何よりもあきれたことに、個人の結果が戻ってこないのである。つまり、国がやれと言ったこのテストは生徒に還元されることがないのだ。まるまる1日以上もかけて、子供たちにやらせた結果は十把一絡げにまとめられて統計資料となるだけなのである。まさにやりっ放し。壮大な時間の無駄。現場の教師の感覚では、試験というのはやっただけでは何の意味もなく、それぞれの解答を教師も生徒も確認し、弱点を知り、次の対策を立て、というプロセスの中の一つであり、それだけで独立して存在するものではない。(というのは、いちいち俺ごときがいうほどのことでもない。)このテストについていえば、まさに
「やっていいことと悪いことがあるんじゃないですか?」というレベルの話なのである。

というわけで、先週末に職員室では「こんなのやったって何の意味もないじゃん…」とみんなしてブツブツ言っていたのだが、今朝(月曜)の職集で教務主任が
「県の学力検査の問題用紙はとっとかせてください。7月に個表が戻ってきますので。」と発言した。
は?今やったやつの戻りが7月ですか?アンタ人を馬鹿にしてんの?と教務にいってもしょうがない。隣の同僚(数学)が苦虫を噛みつぶした顔で「生徒なんかそんなの忘れちまうよ。そんなに時間が空いたってうんたらかんたら…」とまたまたつぶやいているのもなんだかやるせない。

ちょっと、マスコミ対策だかなんだか知らないけど、(証拠を残すだけにしかならない)お上の都合なんかで短絡的に教育の現場に負担をかけるのはよしてほしいなぁ。学力の状況を知りたかったらこれまでやってたやつだってあるんだし、そういうのに便乗する形にするとか、なんかもっと頭を使ってさ、工夫してからにしてほしい。子供が子供であるのは一生に一回しかないんだからさ!子供の時間を無駄にするようなマネはしてほしくないんだよね!

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「国語力」以前の問題

 期末試験の真っ最中だ。今日ウチの学校の2年生で国語の試験があって、担当の先生が、採点しながらいろいろ言っている。

 今回の問題の中に、「修学旅行(10日ほど前に帰ってきた)で自分が得たことを書きなさい」という作文の問題を出したところ、全然ダメだ、というのである。ほとんどの生徒が、「二条城についての蘊蓄を延々と書く」「銀閣寺がなぜ銀閣寺というのか、ということについてエピソードを展開する」など、一点集中の文章を書いて、さっぱり出題の意図にそった解答がない、という。中には、「1日目は新幹線で~~。それからどこへ行って~~。二日目は~。」なんてのもあって、こんなに国語力がないのではこれからどうなっちゃうんだろう、と。
 ところが、2年の担任からは意外な反応が。
「あの子たちは小学校の時からそういう風にやらされてきちゃってるのよ。」
つまり、修学旅行なり調べ学習の発表会なりにおいて、全体を見ずに自分の割り当てられた「対象物」だけをとにかく突っついて、その他のものには興味がない、ということなんだな。だから、全体的に総括して、自分がどう思ったかとか、それこそ心にどんな感銘があったのか、とかそういうことは表現しようにも無理らしいのだ。

 結局、結論はどうなんだ、といわれてもうまく言えないのだが、「国語力」というか文章を書く力、読んでそこから感じたり想像したりする力も大事なんだが、もっと根本的な感性っていうのか好奇心っていうのかな、何かもっともっと大事な、数値に表れない力が、またしても育てられないままに置き去りにされているのを見つけてしまったような気がしたのは、端で見ていた俺だけであろうか。

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新しい指導要領ってどうよ?

新しい指導要領の骨子がボチボチあがってきた。「生きる力」がどうとか、なんてまだ言ってるが、とにかく改善(といっても元に戻ったわけでもないが)の方向に向かいつつあるのかもしれない。しかし、なんといっても俺たち教員の関心事は「教科ごとの授業時数」であろう。何しろ、組み合わせ方によってはそれぞれの学校の教科ごとの教員定数にも関わってくるから、大変だ。いってみれば最重要事項でもある。
 で、その辺を見てみる。おお、「総合的学習の時間」が減っているではないか。よしよし。っと…なに??!「選択教科」が全廃されている??ずいぶん思い切ったな~~!いや、待てよ、ありゃ、音楽・美術は前回減らしたそのまんまじゃん!これってどういうこと?

 お教えしよう。音楽と美術の、実質的な授業時数が「激減する」ということである。今や音楽・美術は2、3年生で週に1回。1年生は年間のどこかの学期だけ週に2時間で、あとは週1時間だけ。もはや風前の灯火なのである。それをどうにか「中学校のレベルの芸術(情操)教育」の形にしてきたのは、「選択教科」の効用があったからに他ならない。すなわち、選択で音楽を取った生徒をコアにして、通常の授業のレベルを引き上げるとか、まあ、様々な取り組みを俺たちは現場で行ってきたのだ。だが、「選択」が全廃ということになると、これは相当教育内容がやせ細らざるを得ないであろう。これからの国民の情操教育はどうなるのか。

 実は、「選択教科(技能教科で開設あれることが多い)」はかなりの中学校で頭痛の種である。何しろクラスを解体してそれぞれの教室に移動しちゃうわけだから、せっかく知恵を絞ってクラス編成をした意味がなくなり、馬鹿どうし愚図どうしが示し合わせて同じ教科を選択し、そこでくっついて騒々しくおしゃべりをしまくったり、イヤ~~な雰囲気を醸し出す、なんてのは序の口。今や授業エスケープの温床なんだよ。何しろ、特別教室で行われる授業が多いから、一人一人がどこへ行ってしまったかなんて、こっちのサイドではけっこう掌握しにくい。授業の先生からは「○○が来てません!」という内線電話が職員室にしょっちゅうかかり、その度に空き時間の教師が校舎内を探し回ることになる。
選択教科の講座の数はクラスの数より5割増ぐらいに開設されているから、いきおい空き時間の教師は人数も手薄であり、あっちへ行ったりこっちへ走ったり、とんでもなく振り回されることになる。「空き時間」といったって教員はヒマなワケじゃない。内心(コンチクショ~~!)と呻りながらの出動だ。おまけに個々の生徒の事情を知らない他学年の先生の場合が多いのでトラブると大きくなりやすいから、揚げ足取りが大好きでキレやすいコイツらの指導には細心の注意が必要だ。
そして、そういう教員の事情を見透かしたガキどもは、そこここでタバコを吸ったり、施錠してある部屋に入ろうとしてドアや窓をたたき壊したり、保健室や相談室に入り浸ったりと、「非体罰地帯」の中学校ではいかんともしがたい難問を次々に突きつけてくるのである。それが今様の「選択教科」だ!!(と言い切ってもよかったかな?)
そんなわけだから、かなりの中学校・教員にとって、「選択教科」の廃止は朗報であるには違いない。

 だが、現実にはどうなんだろうか。10年ぐらい前までは、授業担当時数の調整のために他教科を教えるなんてこともよくあったのだが(そういう俺:音楽教師も国語や社会を教えてた)今ではそれは絶えてないことだ。つまり、それでなくともダブつき気味と取り沙汰される俺たち技能教科の教員はさらに余ってしまうことになる。それに落ち着いてる学校にしてみれば、折角の情操教育の時間を削られてしまい、これはおそらく
「中学校という場(フィールド)」の砂漠化を招くのではないか。「学校は楽しい場所」というお題目もますます怪しくなるねぇ。

 ま、文科省のリーフレットには、「総合的な学習の時間を選択教科とシェアできるようにするかどうか検討中(俺が読み解いた大意)」とあったので、もしそうなれば、いよいよ「総合的な学習の時間」の息の根を止めることも不可能ではなくなるわけだし(文科省も本心ではそうしたいのであろうが)、今後の推移を見守りたいものである。

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教科書会社の底の浅さ

 俺が思うに、教科書会社が教科書を編集する際の方針って間違ってる。文科省検定済みの教科書って数年ごとに全く新しいものに置き換わるので、俺が知ってるだけでこれまでに6回変わった。結論としてわかったことを発表しよう。まったく、何でこうなるんだ、と本当に情けないのだが、

中学校の法則その2:教科書は新しくなるたびにダメになっていく。

 皆さん、お子さんがいるなら学校の教科書、見せてもらってご覧なさい?あれを見て不安にならない人は、はっきり言って子孫が「負け組身分」に堕ちていく人です。
 まず、今の教科書はどれもこれも全ページ色刷りである。とっても色とりどりで、図版も多く様々な事柄が視覚的にわかるようになっている。上質な紙が使ってあって美しい発色である。
 と、ここまで読んだだけでも、賢明な方ならいかに教科書が堕落しているかわかると思う。

 つまり、今の教科書は「よごせない」のだ。我々古い世代は、赤鉛筆(古いか)なんかで傍線を引いたり書き込みをしたりして、教科書をよごし放題によごしたものである。そこから、教科書には個人個人の思い入れや思い出、覚えなければならない事柄や学習の道程・やり方などが浮き出てくるものであり、一人一人にとって大切な「一品」に育っていくものであった。
(若い人たちのために注釈をすると、昔は教科書に書き込みをしたり、傍線を引いたりして勉強したものだった。何しろみんな金がないから参考書なんてそうそう買わなかったし、塾に通う人もごく少数だったから、教科書だけが頼みの綱だったからね。従って、勉強すればするほど教科書には色とりどりの書き込みや傍線が増えてくるし、1ぺー1ページが手あかで実際に汚れてくるし折れ目も増えてくる。それは「勉強した」ということの証になったし、そういう書き込みが多い教科書を持つことに皆プライドを持っていた。つまり、教科書を「汚す」というのは一種のステイタスでもあったのだ。)

 だが、今の教科書はダメだ。まず、最初っから「色とりどりである」ということから、例えば赤鉛筆やラインマーカーの書き込みが、全然目立たない!!次に、「上質な紙」であることから、鉛筆などの書き込みが、紙の上に思ったように乗らない!さらに、音楽の教科書なんか特に顕著なのだが、「総天然色」の美しい写真や図版は、生徒の「脳みそを使って奮い起こすはずの想像力」を「事前に用意」してしまう!もっといえば、イメージが「固定されてしまって」ふくらますことができない!!
 要するに、使い物にならない、ということである。

 「教科書が使い物にならない」というのは、現行の指導要領になってからけっこう言われていて、その話題の方向としては「内容が貧弱」という部分に集中していたように思う。例えば中学の歴史の教科書なんかも、図版ばっかりで本文がどこにあるかもわからない代物ばかり。かろうじて教科書の体裁を保っているのは「作る会」ともう一社ぐらいのものである(それはそれで、いったいそれだけの豊富な内容を教えるだけの時間なんかあるわけないのでは?と危惧される状況だが)。
 旧課程の教科書がオークションで出回っている、というのも当然のこととして納得できる。

 教科書会社は、何とかシェアを伸ばしたい、という欲求の前に、カラフルに、キレイに、「子供にウケる教科書」を作ってきたようだ。だが、学問に王道なし、の格言にある如く、楽をしていたのでは学力は身に付かない。それは子どもに与える教科書や資料集の体裁にしても同じである。物わかりのいい人のフリをするのではなく、一見取っつきにくそうに見えてもちゃんとつきあえばどんどん面白味がわき上がってくる、というような本を、本当は生徒も必要としているのではないだろうか。

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総合的な学習の時間

 まことに慶賀すべきことに、今度改訂される学習指導要領では「総合的な学習の時間(以下総合)」が減らされるらしい。俺としては全廃になるのを期待したのだが、あれだけ鳴り物入りで始めちゃったものをそう簡単には引っ込められないのであろう。困ったものだ。
 だいたいからして、この「総合」というヤツは始まる前から壮大な時間の無駄遣いとなることが誰(まともな中学の教師)の目にもはっきりと見えている企画であった。なにしろ、金がない、場所がない、道具がない、人がいない、ノウハウがないと、どちらを向いてもないない尽くし。文科省としてみれば、「教員の創意工夫で」カリキュラムを作ってほしかったようだが、誰もどうしていいのかわからなかったことから渋々「国際」「福祉」「環境」「情報」といったものを例示したせいでそれが金科玉条となり、生徒をして「またカンキョーかよ…」とため息をつかせる始末となった。

 一番困ったのは、やはり「人」である。だいたい日本全国津々浦々の教師の中に、週2~3時間もの総合的横断的な学習のカリキュラムを考え出せる、文部官僚並みに頭のいい人間がそうそう多くいるはずがない。たとえいたとしても、教科指導だ生徒指導だ、やれ部活だ研修会だ、と駆け回っている合間の片手間でやれる仕事ではない。よしんばできたとしても、それを元に学校全体を動かしちゃっていいものなのかどうか自信もない。さらに管理職が「あれやっちゃダメ、これやるにはこうしなきゃ」とハードルを置きつつ横槍を入れる。教師のアイディアは施設設備や時間や金の制約でつぶされ、生徒のアイディアは「それは総合じゃなくて社会でしょ理科でしょ」とくさされてつぶされる。誰もどうしていいかわからないから、他人が何をやっても間違いに見えてくるのだ。いかに管理職が教師を信頼せず、教師が生徒を信頼してないか、が図らずも如実にわかっちゃったな。

 そして、現実の「総合」の時間はどうかといえば、まずまともに取り組んでいる生徒は少数派。ほとんどの生徒は、
①こんな時間は無駄だ、と見限って塾の宿題を黙々とやる。
②コンピュータ室でネットにつなぎ、株式会社の研究と称してバーチャル株取引に興じる(ウチの倅がやらかした)。
③活動場所が教室や図書室などに分散しているのをいいことに校舎の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてよからぬこと(喫煙など)をくり返す。
④保健室や相談室にしけ込んで担当の教師の手を焼かす。
⑤何をしていいかわからずに暗い顔をしてじっと何もせずにいつまでもいつまでも座っている(これは一番危惧された事態だが、低学力の生徒の場合が多く、最もどうすることもできない連中だ)。
 そして、まともに取り組んでいる生徒といっても、現実には「これが中学生のやること?」と目を疑うような情けない内容のものばかりなのだ。しかもそれを指導する教師の側もどこまでやれば満足、という基準がないから評価のしようもない。A先生に「すばらしい」と言われたりB先生に「なんだこりゃ、ダメ!」と言われたりで生徒は混乱し、さらにやる気のない生徒を生み出す。

 こんな状態を学校は座視して見過ごすのか、と大方はいいたくなるだろうがとんでもない。教師は席の温まるヒマも気の休まるヒマもないですっ飛んで歩っている。だいたい、「総合」は個人の活動だから、普通に考えれば40人40通りの面倒を見なければならない。一クラス50分で一人にかけられる時間は物理的に考えても1分ちょっと。コマネズミのようにいろいろやったところで、子ども達はほとんどほったらかしになる構造なのは考えればすぐわかるであろう。まあ、現実にはグループでの活動がほとんどになってきたし、副担任も総出で指導に当たっているから、これほどのことは最近は少ないであろうが。(でも、そのおかげで、総合の時間には職員室は空っぽ。何かコトがあったときにはいつだって対応は後手後手になるんだよ。)

 というわけで、たいていの中学校では「総合」は目の敵だ。だから今ではかなりの学校で、例えば「基礎力養成」という題目にして数学や英語の授業をやっていたり、体験教室みたいな行事にしてまとめ取りしちゃったり、修学旅行などの事前学習にしちゃったり、など、様々な知恵を絞ってこれを形骸化するように努力している。最終目標としては、総合の時間を「部活代替」にしちゃうことだな。

 ところが、小学校では事情が違うようだ。なんだか、総合的学習の評判がいいのである。それも「子ども達の目が輝いた」などと、ワケのわからないことを言って自己満足の世界に浸っているようなのだ。どうも小学校の先生の考えていることは浮世離れしている。(悪いけど、小中連携の仕事関係でも我が息子娘の通った学校関係でも、これまでに関わった小学校教師で信頼に値する先生は10人に一人もいなかった、と断言できるが、その話は別の機会に書こう)
 そりゃ子どもなんだから、面白いこと・興味のあることを提示すれば乗ってくるよ。そしてそれなりの活動もして、立派にキミの思うとおりに動いてくれるかも知れない。だけど、それでお前らの子ども達の学力はどうなったんだよ!と言いたいのさ、こっちは。
 そんな立派な学びを積んできたはずの肝心の生徒たちは、分数の割り算どころか九九も怪しいヤツもいて、漢字は書けずものも知らず中学校に上がってくる。もちろん保護者はとっくの昔に小学校の授業なんか見限って、頼みの綱は塾だと思っているのに、学力が保持できているのは自分の力だなんて勘違いしているのだ。ちょっと、これからは小学校の先生の意識をなんとかしなきゃいけないな。

 それとマスコミ!
 あれだけ導入時には批判的で、学力が下がったといっちゃあ授業の時間が足りないだの総合の時間が無駄だのって騒いでたのに、いざ減らすとなったら「これまでの積み重ねはどうなる」とか「詰め込みや偏差値輪切りに逆戻り」とか何とか、ま~た文句言ってやがる。
 いったいどーして欲しいんだよ、お前ら。文句のための文句はやめてくれよ。普通の人が混乱するばかりじゃないか。

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新たな身分制度:日本は職業世襲制の時代に逆戻り

 福田総理のお父さんはかつての総理大臣。親子で総理大臣というのは初めてだそうだが、今の日本を象徴している。親子で同じ職業、というのはかなりあちらこちらで見られるようになった。アニマル浜口とその娘。横綱若乃花の一族。最近話題の亀田一家。この日本の社会の流れの中では当然の帰結なのだが、今や日本の職業は世襲制が、より強く強く進行しつつあるのだ(と思う)。

 その大きな起動力となっているのが、平成になってから取り入れられた「新しい学力観」である。これは、(俺の認識によると)知識の量そのものを競うよりも、知識を得ようとする意欲や、応用のための発想力や表現力のようなものを重視したものである。もちろん、こんな考え方で教育を行ったらどうなるか、ちょっと想像力を働かせればわかりそうなものだ。従来教えられていた「知識の量」を増やすのは個人の「意欲」にまかせようっていうんだからね。放っとけばバカが大量生産されるなんて当たり前じゃないか。

 ま、俺たち中学校の教員にしてみれば、そんなの火を見るよりもよく見える。毎日毎日「意欲」のない大量の生徒に手を焼いてるんだから、すぐわかるさ。
 俺は、現行の指導要領が発表された時点で、「これからの何十年かのうちに、日本には新しい身分制度が発生する」と(家内に)予言したのを覚えている。その身分制度とは、ずばり、「インテリ(一部:貴族:高収入)とバカ(大多数:下賎の民:低所得)の二つの階級」であり、もはやこれは固定化せざるを得ないであろう。しかも、「小泉弱い者イジメ政権」の追い風もあって、「何十年」といわず、かなり早い時点でこの傾向がはっきりしてきたのには俺もちょっと驚いている。全く何でこんな学習指導要領を作ったのか。これってもしかすると日本の歴史に残る転換点となるかもしれない。

 机の上で夢を見ている「高級な頭脳の持ち主」文部官僚とちがい、通常ないしそれより上位レベルの親は自分の子どもの「意欲」をそう簡単に信用するほど甘くはないが、ヤバイ!と思う人間は二つの方向に進むと思う。一つは、私立中高から一流大学に進ませよう、という他力本願金満型。もう一つは、子どもの将来に必要な「手に職」をつけてやるには親が一肌脱ぐしかない、という自給自足型だ。後者の典型が前述の親子でスポーツ選手たちであろうが、こんな現象は実はかなりあちらこちらで進行している。
 俺が知ってる世界だけでも、例えば学校の教員の世界では親が教師だったヤツがけっこう多いし、音楽大学なんかの学生も今や2世が幅を利かせているということだ。

 つまり、子どもの受ける教育が、かつて一律だったものが、いつの間にか、親の考えにより個々に偏向するようになってきたんだな(それ自体は悪いことではないとは思う)。さらにそれを補強する要因として、教師・学校に対する不信感がここ20~30年で強くなってきた。作られた不信感、という気がしないでもないが、学校の先生の言うことに重きを置かれない、となれば親の言うことの影響力や責任が重くなるのは当たり前だ。学校不信をあおったヤツはそこまで見通していたのだろうか。そして、親の世界観によって片寄った教育を受けてくれば子どもは親の職業を受け継ぐしかなくなってくる。それを「個性化が進んだ」と手放しで喜んでいいものかどうかまでは俺レベルではわからんが、かつてのような「末は博士か大臣か」という夢のある時代が終わったのは確かのようだ。

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