最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

歴史ある吹奏楽部にて

ここ何日か、音楽準備室の整理にハマってしまった。何しろとんでもなく汚いし乱雑だし腹は立つし手間はかかるがなんだか面白いのである。
とにかく古~い吹奏楽部なので、古~い楽譜が大量に放置されている。しかも小さな引き出しがいっぱいあってそれにアルファベットのシールが貼ってあり、題名の頭文字がそれに従って分類され、片付けてあるのだが、まずはそこがしっくりこない。例えば、「B」の引き出しから「バラの謝肉祭」が出てくるのって、どうなのよ。妙な違和感がある。「D」の棚から「大地讃頌」が出てくるのはまあ普通だけど、「大草原の歌」が出てくるのはなんだかおかしい。さらに、「小鳥売りセレクション」が「D」の引き出しから出てくる理由は、封筒に「Der Vogelhändler」という題名が書いてあったからでしょう。アルファベットなんかもはや意味をなしてない。
その上、半分、いや3分の2以上は原譜ではなく、コピーの楽譜である。それも古くなって、貼り付けたセロテープが茶色に変色していたり、封筒を補強したクラフトテープのノリが劣化して触っただけでパラっと取れちゃったり、演奏に実際使用して書き込みだらけのやつをそのままコピーしてあったり、シミだらけ、しわくちゃだらけ。おまけに欠損のパーツもけっこうあって使い物にならず、ただのゴミでしかないものばかり。触っただけで顔が痒くなりそうで、少なくとも手は痒くなる。手書きの楽譜というのも多い。かつてコピー機なんかなかった時代にはよく楽譜を手書きしたものだが、これらは、書いた本人しかわからないか、書いた本人がそばに居合わせるかしないとわけがわからない場合も多い。ともかく何のためにこんなのを後生大事に保存しているのか、意味がわからん。まあ、気にしないで目をつぶって今まで放ったらかしてきたのでしょう。「バラの謝肉祭」や「吹奏楽のための民話」なんか、そういう状態のがなんセットもでてくる、つまり引き出しにしまいこんだらそれが最後で、あとの人は新たに譜面を用意するというわけだ。ミュージックエイトの「君の瞳に恋してる」なんか、原譜が2セット出てきたからね。引き出しに楽譜をしまい込むというのは、保存方法としてはどうしようもなく非効率的じゃないか。

で、この際引き出しを全部ひっくり返して、不要なものは一切捨てよう、と決意した。一世を風靡したであろう、しかし今や誰も題名を聞いたことのないようなポップスの楽譜とか、持っててもしょうがないし、必要なら改めてどこかで探してくればよろし。それに、わざわざそんなことしなくても、今は演奏するための楽譜なんて実に豊富に世の中に出回っている。コピーの楽譜なんかも、著作権法上問題あるし、汚いばっかりだ。昔のコピー機の調子の悪いのに当たったやつなんかは、かすれてたり黒ずんでたり、裏写りしてたり別の紙に転写されていたり。

ところが、面白いこともあるんですよ。中には原譜もたしかにいっぱいあって、しかも古~いやつが出てきたりする。「りんごの谷」とか「イシターの凱旋」とかね。まだアルファベットの「D」までしかやってないけれど、結構面白い楽譜がいっぱい出てきた。この先どんなお宝が眠っているのか、興味はつきない。
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不快な音楽会~音楽教師の孤独その2


今回はまるっきりの愚痴ですから。

今年度のわが勤務校の合唱祭。最後に職員アンケート(自由記述)のまとめをさせられて、無事終了となったのだが、今回、この仕事は不愉快極まりないものであった。
 まず、こういう記述があった。
来年度以降、もっと合唱の声の大きさ、響き、ハーモニーも高めていかないといけない、と強く感じた。練習方法も含めて。
なに、これ。俺の指導がそんなに下手だと。生徒の声は小さく、響きがなく、音程がめちゃめちゃだからハーモニー感もないと。そういうことですね。そして、来年度以降は音楽の教師なんか相手にしないで自分たち他教科の教員ががっちり指導に介入していこうと。そういうこと?
これほど失礼千万なことを、音楽の教師が読むことがわかっていて書いてくるとは、すごい人間性の持ち主だ。校内音楽会の後で金賞クラスが参加した「市内小中音楽会」の時には校長が
「うちの学校の合唱は水準が高いねえ!」
と顔中笑いにして言ってたんだけどね。これ書いた人は何がご不満なんだろうか、聞いてみたいものだが、残念ながら無記名でやがんの。

~略~担任の合唱指導の力量の違いや、曲数がこなせないとか、~略~
担任の合唱指導の力量」だとよ!笑わせてくれる。いつ誰がそんなの要求したんだ?お前らにそんなもの最初から、一つも期待したことなんかない。新任以来何十年も!思い上がるのもいい加減にしろ!と言ってやりたいよ。 あわせて、
私が若いころは合唱指導をどうしたらよいかわからず、先輩の先生のやり方を盗んでまねたりしていました。若い先生たちにサンプルとなるような、学級での担任の合唱指導を、ある年齢以上の教員は、していかなくてはいけないなあ、と思いました。
な~んてのもあった。今までこういう思い上がった先生がクラス合唱に手を出して、変にいじり回しこねくり回し、せっかくの指導を台無しにしてくれたことはあるけど、役に立ったことなんか記憶にない。もちろん、音取り用のCDをクラス人数分製作して夏休み前に配るなど、有効な側面支援をしてくださる担任の先生もいらっしゃって、そういうのは感謝なのだが、割り箸を奥歯に咥えて声出すみたいな、わけのわからない民間療法を生徒に押し付けるとか、女子のせっかくの頭声的発声を地声に戻してホールでの響きをかき消しちゃったりとか、迷惑なことしか記憶にない。大体、そういう担任のクラスであればあるほど、そもそも女子の声が聞こえなくなる。なんでなんだろうね~。だいたい、こういう指導にしゃしゃり出てくる先生は、昔(学生時代)合唱部だった、とかそういうことで妙に自信があったりするんだけど、神話時代の音楽指導(腹を膨らませて息吸え、とか)にどっぷり浸ってて、現代の科学的(になりつつある)な教科指導を知らない場合が多い。第一、音楽専科と違うことを教えたら、自分の立場が危うくなることぐらいわからないのか。

もっとも、市町村によっても違うかもしれない。これまで(といってももう10年近く前になるが)勤務していた市ではそういうことはなかった。
「まったく生徒に任せたまんまで合唱練習が進んでいく。楽させてもらった。」
「今年の放課後練習は怒鳴らないでやろう、と決心していたが、本当に一度も怒鳴らないで終わってしまった。」
という感謝の言葉をいただいたことは多々あるし、プロ教師の会の河上亮一氏も
「女子の細いきれいな声は音楽の先生に任せるしかない。」
みたいなことを何かに書いていたのも読んだことがある。若いペーペーだった時期から、音楽のことは音楽の先生に任せるべし!という風潮のなかで、俺は仕事をしてきた(させられてきた)。だからいろいろな工夫を考えたし、卒業式なんかの指導では(今日はどうやって…???)と何日も前から頭を悩まし、緊張して取り組んできた。そして、それが当たり前だと思っていた。変な民間療法の指導をする人も俺が取り組んでいる合唱祭に影響を与えるほどの人数というか勢力はなかったし。
ところが、現任校の市にきてから風向きが変わったんだよな~。どういういきさつでこうなったのか、よほど指導力のない音楽教師ばかりがのうのうとのさばっていたのか?(そうと確信するに足る様々な状況証拠を俺は把握しているが。)しかも、それまで勤務していた市に比べて合唱祭のグレードはまるっきり低いのに。偉そうに何言ってるんだっつうの。
いずれにせよ、こんなふうに音楽教師がないがしろにされたのでは何をかいわんや。ただただ怒りに震えるばかりである。一時、
「合唱祭は大声コンテストではない」
というスローガンが出回ったこともあったが、俺みたいな頑迷なジジイが消えていくに従い、合唱祭は大声コンテストに戻っていくのであろう。歴史は繰り返す。だが、知ったこっちゃない!勝手に怒鳴り合いやってろっつーの!

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音楽教師の孤独

音楽の教師になって以来ずっと、音楽の教師って、なんだかとても損な役回りである、と思っていた。

 まず、音楽の授業って、生徒が黙って座っていただけでは成立しない。例えば、一人残らず数学や英語が嫌いな生徒ばかりの教室でも、そいつらが座っている限り数学や英語の授業は成立する(というほど単純な話ではないのは分かっているが一応)。体育が嫌いな生徒ばかりでも、強面の先生が怒鳴りつけ、殴りつければ(という時代もなかったわけでもない)一応授業は成立する。だが、音楽の授業は、生徒が「音楽が好き」で、「その気になって」いなければ成立しない。
「歌うから立ってください。」
などという指示を出したとして、生徒が言うことを聞かなかったからといって、怒鳴ったり殴ったりしては「音楽」の雰囲気はぶち壊れて楽しくなくなっちゃうし、音楽嫌いな生徒ばかりの前で
「一緒に歌いましょう」
といっても無視されれば、やっぱり成立しない。今ではいろいろ(周囲からしてみれば)魔術も使えるようになったので何とも思わなくなったが、若いころ他教科の先生がどれほどうらやましかったことか。

 そして未だに、一番腹立たしいのが、俺みたいなボンクラ音楽教師が卒業式の式歌斉唱の指導とかで四苦八苦しているときに
「ホニャララ先生はすごい(すごかった)!何しろあの先生が教えると、生徒が見る見るうちに変わっていくのさ!すごく大きな声で歌い始めるのさ。」
「ホニャララ中学校じゃ、生徒の声が大きくてさ。全校合唱では体育館のガラスが本当にビリビリ響くんだよ。本当にさ!あの音楽の先生は本当にすごいねえ!」
みたいなことをこちらに言ってくる同僚の存在である。これは全くイライラする。だからどうしろちゅうんだ?教えてくれよ!!ってこと。
 この世界では、伝説的に偉大な音楽の先生、というのが存在していて、かつてその人と同僚だった先生がその時にいかに感動したか、という話をするのである。もちろんその人は掛け値なしに尊敬できる素晴らしい指導者なのは間違いない。それは実績にも表れているし、小中音楽会みたいな行事の際の、その先生が指導した生徒たちの演奏を聴いても(いやっちゅうほど)わかる。
 だが、そのホニャララ先生がどれほどのものか、その本当のところは他の音楽の教師には全く知るすべがないのである。何しろ、その場に居合わせないわけだから。昔からどんなに大きな学校でも音楽の教師は1校にせいぜい3人、今やほとんどの学校で1人しかいない。自分の勤務校を放ったらかしてその大先生の指導を見に行くなんてことできるわけないでしょ。実際、その先生がどんな表情で、どんなテクニックを駆使して、どんな指示をして、そもそも生徒とどんな関係を築いていたからそういう指導ができるのか、また、「大きい声」といってもどの程度の大きさなのか、声の質はどんなだったのか、響きはどういう風についていたのか、絶対に知るすべはない。また、知ったところでそれを自分が実践できるわけでもない。

 結局、様々な断片的な情報を組み合わせ、自分でできることを自分でイメージし、自分で工夫し、自分で完成させ、生徒とともに試行錯誤していくほかに方法はないわけだ。だから、その結果がホニャララ先生と違っていて周りの先生がもどかしい思いをしたところで、そんなのどうすることもできないわけですよ。私は私で必死にやっているんです。

 最後に、音楽の教師は、というか技能教科の教師は、常にほかの先生方から評価の対象にされる、ということ。なにしろ、体育はグラウンドでやっている授業はすべて見ようと思えばオープンであるし、美術ならば作品が並ぶ。(アホな美術教師の指導の下では幼稚な作品が並ぶ:これホント。)音楽の場合は音楽室から聞こえてくる合唱の声が直接的に評価される。それどころか、卒業式や入学式では全職員の前で歌唱指導をしなければならない。これはすっごいストレスなんですよ、実際。うまくいけば
「今年の生徒はよく歌うね。」
うまくいかなければ
「日頃の音楽の授業、どうなってるんだよ?(先生のせい)」
そして、いつだって指導者は褒められないような仕組みになっている。誠に、音楽の先生とは損な役回りである、ということが…少しはわかってくれよ~~~!!

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コンクールの出番がオオトリとなる件について

 先日、わが吹奏楽部のコンクールの本番があった。くじ運がいいのか悪いのか、出番は一番最後。
 演奏が終わり、スコアと指揮棒を持ったまま生徒とともにホワイエに行ってみると、前の団体の記念撮影をまだやっている。しかも手に楽器を持っていない。ということは管楽器を片付けてから撮影か、と判断して、生徒に、
「大至急楽器置き場に行って管楽器をしまって来い。」
と指示を出し、自分は閉会式から会場撤収までのスケジュールを考えて、着替えるのは今しかない!と判断し、楽屋へ行って服を着替えた。それから大道具搬入口に行ってみると、案の定うちの打楽器をトラックに積む作業がまだ終わっていないので、それを手伝って片付けてから舞台下手袖を通り抜けて(その時には表彰式に参加する各校の部長たちがもう勢ぞろいしている…やばいじゃないか!)再びホワイエへ急行すると、全員集合写真を撮るばかりに管楽器の連中はひな壇に整列済みだ。生徒からは、私が着替えてしまったことに対するブーイングの嵐である。そりゃそうだ。まあともかくそこで写真を撮って、解散してみると、なんと、あと15分で閉会式開始の時刻である。だが、管楽器をトラックに積み込む作業がまだ残っている。なんてこった!
「5分以内にトラックに管楽器を積み込め!」
と、通常ならあり得ないメチャクチャな指示を出し、梅雨明けのクソ暑い中、みんな全力疾走で楽器置き場に殺到する。そこから重たいチューバとかも含めて担ぎ出すが、そこでもなんと、運搬計画係の生徒がいちいち運び出す楽器の種類と数をチェックしている。律儀と言っちゃ律儀だがまだるっこしいこと夥しいじゃないかい!第一、トラックに積み込む作業だってそんな簡単にできることじゃないんだぞ!と叫びたいところだが、手順を踏まないのは失敗のもとだ。慌てちゃいかん。
 で、駐車場へ行ってみると、卒業生も来ていて積み込み作業の真っ最中。途中から、
「作業がなくなった人は客席へ行ってください!」
という指示も部長から飛んで、生徒はかき消すようにいなくなっていくが、肝心の部長は舞台袖集合じゃないのか?こんなところで指示なんか出してる場合じゃないだろ!今頃
「ホニャララ中学校の代表の生徒は舞台袖に来てください」
なんてアナウンスが入ってるんじゃないか?
 で、トラック積み込みが終わった時点で閉会式開始予定時刻の3分前。積み込み作業は驚くべき素早さだったというべきであろう。本当に、中学生はすごい。で、急いでホワイエに行き、今日の演奏のCDを販売している業者に注文をかけてから客席に入ろうとすると、うちの生徒数人(そのほかはどこに行ったのか見当もつかない)が出てくるところとぶつかる。
「先生、どこにも座る座席がありません!」
「上に行け、上に!」
で、階段を駆け上ると、先に行ったそいつらが2階席のドアから出てくるところで、
「先生、座席がありません!」
「3階席に行け!そっちのほうのドアが3階席につながっているから!」
と誘導し、そこから入ってみるとすぐ真下が舞台、というすごい前の方の席であるが、そこしか座席がない。仕方がないからそこに生徒を座らせ、自分も座ったが、その時には既に閉会式・表彰式は始まっていて、代表生徒も舞台に整列している状況だ。何たる忙しさ!一番最後の出番というものがこんなにも忙しいとは知らなかった。

教訓
 コンクールで出番が最後になるようなクジはひかない方がいい。

おまけ
 スコアと指揮棒を会場に置き忘れて帰ってきてしまいました。ホントしょうもない顧問である。

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吹奏楽の市民権

最近のテレビのバラエティ番組で、BGM にしばしば吹奏楽曲が聞かれるようになってきた。吹奏楽がある意味市民権を得てきた、ともいえるので、喜ばしいことではある。自分が中学高校のときには
「部活は吹奏楽部で、クラリネットを吹いています」
なんて、恥ずかしくて(少なくとも大人には)言えなかった。なにしろ、
「ああ、ブラバンね。ブカブカドンドンのあれね」
「そうかいクラリネットかい。将来はチンドン屋になるのかね?」
とか、(少年である自分としては)なんだか一段低くみられてるような、悪いことをしているような気がしてくる反応しか返ってこなくて気が滅入るからね。大人というものが、いかに狭い固定観念の世界の中で暮らしているのか、ということを肌で実感したということでもあった。

 時代が変わったということもあるので、ま、それはともかく置いといて、バラエティ番組のBGM。
 鉄腕ダッシュの無人島のコーナーにおいて、「天国の島」が使われているのを初めて聞いた時には、実は冷汗が出たのであります。というのも、その曲をやったコンクールの時での(あのときああしとけばああああああああ!!)とか(あの○○のあのヤローがぎゃあああああ)とか、忘れようとしてやっと忘れられた嫌な思い出が一気に目の前に飛び出してきたからね。当事者にしては刺激が強いわ~~。(もう慣れたし、全く代替わりした生徒たちがあの番組を見てやりたがったので定期演奏会で再演しちゃったけどね。)

 しかし、それにしても、ついこの間、とりだめてある番組を見た時の「クローバーグラウンド」にはマジぎょっとした。今やってるヤツじゃん!なぜこんなところで流れる?!
 正直、今年の課題曲はよしてほしかったです!本当に刺激が強すぎだよ!

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軍隊の合唱団

 合唱祭(ウチの学校では「校内音楽会」)が終わり、先日はその代表が集まる「市内小中学校音楽会」が開かれた。そこでよその学校の演奏の時に気になったのが、
①指揮者が右手をあげる。
②それを合図に合唱団(クラス合唱だから学級全員)が気をつけの姿勢から足を開き、「歌の姿勢」をとる。
③指揮者がその手を上に上げたまま舞台下手にいる伴奏者(ピアニスト)の方を向く。
④音楽が始まる
⑤音楽が終わると、指揮者が右手を下ろす。
⑥間髪を入れずに全員がそれに合わせて気をつけの姿勢に戻る。

という、あの一連の流れである。よくないよね~。
俺はこれが大嫌いで(というよりもあってはいけないことだという信念を持っている)、15年以上前から、行く先々の学校においては禁止しているのだが、それでもうっかりすると学年主任や担任がそういう指導をしてしまい、クラスによってはこういうみっともない光景が、この俺様の監修下にある校内音楽会でさえも、未だに見られてしまうことがあるのは、実に不快で残念なことである。
 なぜダメなのか。それはこの動きが
「音楽」をぶち壊しにするからである。よ~く考えてほしいのだが、全員が一斉に姿勢を変える動きは、軍隊、といって悪ければ体育のものである。それは一見
「よく訓練されている。指導が行き届いている」
「クラス全体の心が一つになっている。チームワークがある」
という雰囲気を見てる人にもたらすのだが、舞台上で音楽をする、という行為の上では残念ながら邪魔なだけである。よく言われることだが、舞台に上がってからおりるまでが演奏だ。明るい音楽なら最初から最後まで明るい雰囲気。悲しい音楽なら最初から最後まで悲しい雰囲気。それを舞台に上がった瞬間から作り出すことも「演奏(パフォーマンス)」のうちである。

 それなのに、この一連の動作は、その雰囲気の中に一瞬にして「軍隊」の雰囲気を持ち込んでしまう。せっかくしずしずと舞台に上がり、クラス代表が自分のクラスの紹介やクラス曲の説明をして、じゃ、それを聴こうかいな、という気分になった瞬間に舞台上の木製の床がどんっ!という感じに鳴り響き、軍隊的な物々しいムードが立ちこめる。まさにぶち壊し。そしておしまいはもっと悲惨だ。曲が終わり、その余韻の中に賞賛の拍手がわき起こる、何ともいえないほっとする雰囲気の中に再度、いきなり木製の床がどんっ!という感じに鳴り響き、生徒の努力の結晶であるところの独特の感動をもった演奏を聴いてそれなりにうっとりしている脳みそに激震が走り、それまでの感動は一瞬にして消し飛んで現実の世界に引き戻されてしまう。こんな暴虐が許されていいのだろうか。

 だが、小学校からそういう流れでやってきた生徒も、それしか知らない教師も、「そういうモンだ」と思っている常識の中では無頓着。言われてみて初めて気づく、ということなんだろう。何しろ、ある年に俺が意を決して
「今後はそれ、やめてください!」
と言い出すまで、全く誰も疑いも持ってなかったようで、会議中の職員全員がびっくりして、不思議そうに
「何でですか??」
と言い出す始末だったからな。そして、言われてみれば
「そりゃそうだよな。」
という話になり、合唱祭が終わってからは、
「やっぱりよかったね、あれ」
ということになって次の年からは定着し始める。

 生徒に説明するのも大変だ。
「あれはな、音楽の流れをぶっ壊しちまうんだよ。指揮者が右手を上げたら、もう音楽は始まっているんだ。始まってから姿勢を作るなんて、おかしいじゃないか。指揮者が君らの前に現れたら、もう準備完了でなければイカン。一人一人の自主性で、指揮者が出てきたその時から自分で姿勢を作って待つ、というのが正式ってモンだぞ。実はその方がずっと難しいんだ。なにしろ一人一人自分の意志でよい姿勢にするんだからな。でも、それができてこその中学生ってモンだ。小学校の音楽会とは違うんだよ。第一、舞台の上でどんっ!なんて音を立てたら全然音楽的じゃないだろ?」
生徒もさるもの、
「でも先生、オーケストラや吹奏楽では指揮者が手を上げてから、楽器を構えるじゃないですか」
なんて言ってくることもあるが、
「あのな。オーケストラの演奏は全員一斉に始まる曲ばかりじゃないんだよ。彼らだって、いつでも演奏できるような準備完了の状態はちゃんとできているの。」
と、とにかく説明しとかねばならない。放っておくとその年に転任してきた担任とかが、旧来の舞台マナーを指導しちゃうからね。



 くどいけど、ホント、よくイメージしてみてよ。軍隊の動きみたいな姿勢の変化のあとで、
「ありその~~、いわかげに~~。」(親知らず子知らず)
とか
「わたしはっ いまっ どこに~ある~のと~。」(YELL)
みたいに音楽が始まるって、おかしいでしょ? あり得ないっての。曲のおしまいなんかはもっとそう。いま例に挙げた曲の終わりの静かな雰囲気が漂う中での、あの
どんっ!て音と動き(体育館でやるにしても市民会館でやるにしても同じ)、もはや
暴力行為でしょう。海上自衛隊の進水式かなんかで軍艦マーチを歌いましょう、なんていうのと違うんだっての(そういうシチュエーションがあるかどうかは知らないけど)。皆さんの学校でも、未だにそういうことしてる音楽の先生がいらしたら、その人はちょっとは恥を感じてもらって、来年からは廃止してくださいね。

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ピアノの呼称など

 ピアノという楽器は、昔も今も、なんだか神秘的な存在感というか威圧感というか、独特な思いを多くの子供に抱かせる。学校にあって、先生が弾くピアノは先生とともに何かを(それも饒舌に)語り、「ピアノを習っている」という友達が弾くと、なんだかあこがれたくなるような世界がちょっと自分に扉を開いてくれたような気がして、だが自分たちが鍵盤に触れてみても、せいぜいチャルメラか猫踏んじゃったかが関の山で、結局は無駄な雑音しか発しない。たぶん、昔(俺らが子供の時分)には、
「ウチもピアノを買って我が娘に習わせるぐらいの甲斐性は持ちたいものだ。」
と、日々仕事に打ち込んだお父ちゃんなんかも多くいたことであろうか。なんかわからんが、特別なものではあるのだ。

 最近、それでも住宅事情とか、景気とか、世の中の様子が様々に変わって、ピアノは、家庭においてはかつてのような扱われ方をしていないようだ。この頃家内が語っていたところによると、今や家にあるピアノはデジタルピアノが当たり前になっていて、普通のピアノは少数派となっているという。そして、グランドピアノ(本来あるべき姿の、普通のピアノ)は「学校のピアノ」、アップライトピアノ(場所を取らないために開発された簡易タイプ)は「幼稚園のピアノ」と呼ばれているのだそうな。もはやアコースティックなピアノは過去のものになりつつあるのか?

 昨今では、住宅事情もピアノ様が生息するにはなかなかつらいものがあるし、なんと言ってもアコースティックピアノは値段が高い。アップライトでさえもうっかりすれば100万コースだが、デジタルピアノは20万も出せばそこそこのものが買える。年に1回、調律にかかる費用だって、けっこうバカにはならない。そして、お父ちゃんなんかの幼稚化も、見逃せないものがある。何しろ、ウチで娘なりが練習していても、
「うるせぇ!」
なんてのたまう低レベルな人格も一般的になっているから、子供にしても、思ったように練習できないこともある。

 それでも、毎年入学してくる中学生の中には必ず一定数の「ピアノ」つまり音楽祭で伴奏者がつとまる生徒が存在するし、その数も減っているようには思えない(増えてはいないし、以前ほど熱心に練習する生徒も減ったが)。やはり日本人は教育が好き。「教育することもされることも、根っから好きなのであろう。

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