最後のデモシカ教師の不謹慎発言

かつて教師に「でも」なるかぁとか、教師に「しか」なれない、という理由で教師になり、学校現場に彩りを与えていたデモシカ教師。そのデモシカ教師の目で現在の教育の裏をあばき、悪態をつく(だけ)!なお、このブログはリンクフリーです…

知能の高い人物がはまる落とし穴

 橋元知事はほかの党が絶縁を決定するに及んでも、結局自分の発言について、「趣旨が理解されてない、正しく報道されてない」などと言いつのり、我を張っている。何という、状況の読めない奴だ。若いからじゃすまないよね~。もう取り返しがつかないであろう。「維新の会」は終わりかな。

 かつて、国力の劣る日本は、軍隊をちょっとでも強くするためにあらゆる研究・調査をした。飛行機の搭乗員を選考するのに骨相学を参考にしたり、血液型と性格の関係を調査したり(血液型神話のもとになったという)、女郎屋に通っているか否かと事故発生率との関係、など多岐にわたる研究をしたらしいんですよ。その過程で従軍慰安婦という考え方も生まれたのかもしれない(よくは知らない)。当時としては、よその国の軍隊は占領地域での婦女暴行は当たり前(当然の権利?)だったわけだから、それよりは進んでいた、と考えることもできる。現代とは違う人権感覚の時代だったこともあるしね。

 だが、それを言ってどうなるのだ?しかもあの立場の人間が。言ってることの正否はどうでもよくて、それよりも「従軍慰安婦問題」は理屈で話せるものではない、という肝心のことが彼にわかっていないのはなぜなのか。だいたい、そんなことをうっかり肯定的にしゃべっちゃうだけで、即座に世の中の半分の有権者、すなわち女性からそっぽを向かれるでしょ。無条件で嫌悪感を持つ人だって多いわけだし。さらに特定アジア諸国では反日政策のネタを探してるんだから、日本の政治家が何か言えば、内容なんかどうでもよくて、大騒ぎができればいいだけでしょ。いかに論理の正当性を主張しようとしても、その中身なんか最初から検討する気のない連中が大勢群がっているその中に、無計画に何か言っちゃうことの危険性がわからないとは、あきれた馬鹿野郎である。だいたい、ああいうことを話題にしちゃう時点で、品性を疑っちゃうのは俺だけだろうか。


 彼の悲劇は「知能が高い」というところにあるのだろう。俺みたいな阿呆から観察してみると、知能の高い奴は、まあ何しろ理屈で物事を考える。そして、計算づくで
「これはこうだから、こうなって、だからこれで大丈夫なはずだから、そこでこうやって、こうすれば、ん、OK!」
てな感じに筋道を立てて考える。まあ、だいたい正論ではあるし、うまくいけばこんないいことはないのだが、けっこうな確率でその中には「余裕」がなかったり、周辺のことについての思いがめぐらせてなかったり、ほかの人間がどう考えるか、という視点が欠けていたりする。それで、フツーの脳みその持ち主が直感的に危険を感じ、彼を心配して、
「え、それ、よした方がいいんじゃないの?」
なんて言おうものなら、バカにバカにされたという腹立ちもあって
「大丈夫だ!」
と、必要以上に抗弁してしまう。そしてうまくいかなかったときにはまわりの(バカな)人間のせいにして、自分に原因があった、という反省はしない。
(その最も顕著な例が原子力であろうか。とにかく、「一般人」がいろいろ心配しても学者連中や官僚の頭のいいのが「大丈夫なはず」というので進めちゃって、結局「一般人」の心配した通りの事故や事件がすべて実際に起きている。どこだかの原発も、「活断層の上に立ってない」ということにしたいのだろうが、本来は「活断層かもしれない」という時点で撤退決定でなければいけないはずだろ。ユトリ教育もそう。建前が独り歩きするが、誰も文科省の言うような高邁な理想の通りに学習なんかできるわけなかったのに、はっきり「失敗した」とは言わないわな。)
 橋元知事もそういう落とし穴にはまっちゃった、というべきだろうが、あの調子ではリカバリーは無理だね~。結局のところ、思いやりが少ないのだ、周辺の自分を支えてくれる人に対して。というか、自分以外の他人にも「感情」というものがある、ということをわかってるのかね~。

 ああいうのを見ていると、コイツ中学生の時にどういう生徒だったんだろう、と思ってしまう。きっと、いろいろ軋轢があっても自分に都合のいい理屈を論理的に主張して通してしまい、教師なんかも言い負かされてそのまま走っていくのを止める人間が周囲にいなかった、という少年時代かね~。
 まあ、中学生にもそういう生徒はいるね。しかも、年々生徒と教師(あるいは生徒同士)との関係性が薄れてくる中で、自我が他者とのすり合わせでとんがりを削りつつさらに大きく育っていくということが少なく、どんどん独善的な考え、というより狭い価値観の中の思い込みだけが肥大した状態でそのまま卒業しちゃってる感じがする。そういう頭がいいけど青臭い(というのは親切な言い方か)奴って、本当は放っておいちゃいけないんじゃないか、どこかでガツ~ンとやっちゃわなければ世のためにならないんじゃないか、とも思うんだけど、どうすることもできないんだよな~。奴らの屁理屈に対抗し、論破するだけの時間の余裕も心の余裕も、なかなかないもんね。
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親って、どうやってなるの?

 市の教育研究会で年に一度の行事、すなわち「総会並びに講演会」というのがあった。いつもはひたすら舟を漕いでいるうちに終わってしまうが、今年はか~な~り面白かったこともあって、最初から最後までちゃんと話を聞いていたぞ。講師は「ハートフルコミュニケーション」?の代表の人だった。その中で、例えば小学校とかのお母さん方対象の講演会なんかで
「自分の子供が、朝起きて、遅刻しないように家を出るようにするのは、誰の仕事ですか?」
と問うと、
「それは私の仕事です。」
と、いささかの躊躇~疑問もためらいもなく(しかもちゃんとできていないことを恥じている風をも見せつつ)答える母親がフツーにいるのだそうな。自分がどれだけ馬鹿なのかわかってない奴が本当の馬鹿、というのの見本だな。もちろん、しょっちゅう学校に遅刻されたのではかなわないから根負けして、あるいは共働きで空っぽになる家に子供だけ寝かせとけなくて、朝、子供をたたき起こす親も多かろう。現実はムヅカシイ。軌道に乗るまでどういう我慢をするか、というところが親としての頭の良し悪しの分かれ道だな。

 いったい、それまでなんでもなかった人間が「人の親」になる、というのはどういうことか。長男が妻とともに産院から帰ってきて小さな布団に寝ているのを見て俺がまず考えたことは、
「これからは俺がちゃんとしなきゃいかん。」
と漠然と思ったことと、
「まず俺は食べ物の好き嫌いをなくそう」
という決意であった。食い物の好き嫌いなんかしてたら、自分の子供の手前恥ずかしいからな。何らかのアクションを、自ら起こさないことには、人は「親」にはなれないんじゃないか、すなわち我が子が「人」として育つことができないんじゃないか?
 それなのに、ただただ授かるばっかりで何も成長しないガキ人間のいかに多いことか。1歳にもならない嬰児を、泣き止まないからといって折檻して死なせちゃうなんて、犬畜生よりもグレードが低いでしょ。動物は普通の環境でそんなことしないよ、絶対に。
悪魔君命名事件じゃないが、最近のDQNネームも心底あきれるものが時たまいて驚かされる。たとえば「陵(りょう)君」。陵という字はお墓のことだよ!
あと、「ゆな(漢字はともかく)ちゃん」。ゆな(湯女)って春もひさぐ温泉場の女の人のことじゃなかったっけ?ま、とにかく通常なら絶対にあり得ない命名だが、だいたいからして我が子の末永い幸せを願うというより、たまたまそのときの自分のセンスの良さ?をひけらかすためとか、呼んでみて語感がよければいいとか、自分の都合だけで子供の名前つけちゃうからそういうことになるわけで、最後に恥ずかしい思いをするのは自分だし、不幸になるのは子供本人だ、という想像力が働かないものなのかね~!まあ、そいつら要するに馬鹿だから仕方がないということなのだろうが、かわいそうなのは絶対に子供である。
 最近の若い奴は(なんて言い出せばあまりよくない意味でトシをとった証拠だが)根本的にちゃんと育ってないと感じてしまうことが多い。いくら何でも、「人の親」として最低限の何か(といわれても漠然としすぎだが)を身につけていないことには子供産んじゃだめ!ってことにしないとまずくないか?と、どうしても思っちゃうのである。

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笑顔を忘れた子

 先月下旬、1年生の職場体験事業が行われた。3日間のうちの二日目、生徒の様子を見がてら写真を撮るために、授業の合間を見て回ってこなければならなかった。他の先生は自分の担当学年(つまり1年)の授業が多いから、空き時間が増えるのでよいのだが、音楽の教師は週に一回の1年生の授業が減ったところでたいした違いはなく、忙しいことである。

 で、いくつかの幼稚園を回るが、その中に、この世のすべての苦虫を集めてかみつぶしたような顔をしている女子生徒がいた。そいつが園児たちの間に座り、お世話係をしているわけである。しかし、思うに幼稚園から大学までどんな学校にあっても、教師たるもの最も大事な武器は「笑顔」ではないだろうか?
 基本的にそう思っている俺としては、
(あちゃ~、なんでこいつがここに割り当てられちゃったんだ?まずいじゃね~か!)
と思い、その女子に
「あのさ、笑いなよ。ちっちゃい子に好かれないよ!」
とささやいたのだが、もちろん全く効き目はなかった。あと一日、心配だな~と思いつつ、幼稚園の先生にお詫びを言い、とにかく帰ってきた。

 それにしても、思えば不思議なものである。この女子は、本当に笑顔というものをお母さんの胎内に置き忘れて生まれてきたんじゃないか、と思えるような仏頂面の持ち主である。笑っているところをほとんど見たことがない。そのくせ妙に頭がよくて口が達者で行動的で、学級では裏ボス的な存在であり、教師の揚げ足を取ってクラスの雰囲気をぶちこわしたりするのは大得意なのだ。これを言っちゃ身も蓋もないが、いったいどういう育ち方をすればこういう子供ができあがるのだろう、と生徒を見ていて思うことがある。「女は愛嬌」なんて、古い言葉だし男女差別に聞こえるかも知れないが、今の世の中だって真実には違いないはずだ。
同じ能力の人間を2人並べてどっちか選べ、といわれたら、見た感じ性格が良さそうな方を取るに決まってるじゃないか、企業の採用担当者だって婚活中の異性だって。親たるもの、そういう将来のことを考えて、自分の子供をどういう子にしたいかのビジョンを持ってだな~、子育てをしてほしいものである。子供を見る親のまなざしのって、けっこう大事だと思うよ~。
 

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親の質が変わっていく

 「はじめてのおつかい」というTV番組がある。だいたい正月とかに放送されるようだ。3歳とか4歳とかのがんぜない子供たちが知恵と体力の限りを尽くしてたった一人で目的をやり遂げる、という姿はかなり感動的で、多くの名場面もあったように記憶している。20年ぐらい続いている長寿番組で、最初の頃に出演した子供が立派な大人になっていたりする。

 しかし、最近はあまり魅力的な番組だとは思えなくなってきたなあ。なんだか、単に子供たちのかわいい仕草や泣いている姿なんかを見て楽しむ?番組になってきているように感じる。

 なんだか俺は、その子たちの親が気に入らないのだ。

番組の開始当初に出てきた親たちは、最近の親連中よりも明らかに「明確な目的」があったんじゃないか。何かで間違えて違うのを買ってきちゃったり、失敗したり、忘れたりしてきた(しかしヘトヘトになってる)我が子に、
「もう一度いってきなさい!」
と無情な言葉を投げつけたりする。そこには、自分の子供を育てようとする厳しい目があったように思えた。
 だが、最近この番組に出てくる親はといえば、全くのトホホである。めそめそしていつまでも出発できない子供にいつまでもベタベタへばりついている。遠くから帰ってくる姿を見かけると我を忘れて迎えに飛び出してしまう。それ以外にも、なんやかんやと手伝ってしまう。これではいつになっても子供の方が親を頼るという精神構造から脱却することができないであろう、と思わせる、正直不快な場面が多くなってしまったようだ。第一、普通の家の「初めてのお使い」だったら本当に外の世界に子供を一人でおっぽり出すのに、この子たちは番組スタッフが取り巻いて鉄壁の安全の中で行動するだけじゃないか。それなのに
「行ってこい!」
と子供の背中を押してやるのをためらっちゃうなんて、意味がわからない。コイツら(親の方よ)を見ていると全く先が思いやられる。こういうのに育てられたグネグネの子供がいずれ中学生になって上がってくるわけだからね。
 TV番組の中の出来事とはいえ、たったの20年で、坂道を転げ落ちるように堕落していく子育ての現状を、こんなにもわかりやすく明白に世に示している例は、他にあまりないのではないか、とも思うけどどうなんだろうか。

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かわいい子供とは

 先日、家内の営んでいる音楽教室で「発表会」があった。その会の最中、ある女の子(小学2年生)が、客席にいる母親の誘いに乗って、客席に向かって手を振ってしまった。せっかくのハレの舞台で、しかも舞台マナーについて再三指導しているにもかかわらず、そのようなことをするとは言語道断である。当然家内はその母親に注意をした。
「他の出演者の皆さんにも、そんなことをしたら次から発表会に出さないからね!と指導しておりますので、是非おやめください。」
母親は実に憮然とした表情だったそうである。そして数日後、お教室をやめます、と電話で連絡してきた。

 この親子は(ある意味音楽教室のお荷物だったのだが)、とにかく子供をべったり甘やかす困りもの。その女の子はレッスンの時には毎回バカみたいに巨大なリボンを頭につけて現れ、何か話しかけると
「ウンッ!」
と返事する。
「ハイ、でしょ」
という度重なる指導も空しく。自分がかわいいとでも思っているのか。発表会にもまるでコスプレイヤーみたいな奇抜な衣装で現れて異彩を放っていたのだが。
 母親もレベルの低い人間。いつぞやもスイカを持ってきて、
「これ、~~からのもらい物なんですけど、食べきれなくて余ったので、どうぞ。」
ですって。口の利き方を知らないのね。先の大震災の時にも、
「うちの子が心配で学校に電話したのに出ないんですよっ!全く、どうなってるのかしら、小学校の先生って!!!」
と激怒していた、というのである。どこんちの親だって我が子が心配だったろうに、あのシチュエーションで電話が通じると思っているあたり(その後も思い続けて学校を悪者に仕立て上げるとは…トホホ…)、マジ自己チューとしか言いようがない。

 それにしても思うのだが、いったい「かわいい子供」というのはどういうのを指すのだろうか。生まれたばかりの赤ん坊は無条件でかわいい。目を開けばかわいいし、自然にニーッと笑顔を作っただけでもかわいい。だが、2歳、3歳ともなると、そうも言ってられなくなる。公共の場で駆け回ったり奇声を発したり、邪魔なところに座り込んでたり。どんなに見てくれがかわいくたって、
「おやおや、かわいいお子さんですね~」
とは挨拶できなくなる。
 ウチの子育て戦争のさなかの時期、家内は常々言っていた。
「人様にかわいいって言われる子にしなきゃいけないのよ!」
つまり一言で言って(年相応に)お行儀のいい子、仕事をする子、挨拶する子、はきはきとTPOに応じた受け答えができる子。それが本当の「かわいい子」である。「かわいい子」を育てる(作る?)のは、並大抵のことではないはずなのだ。キレイなブランド物の服を着せて、猫っかわいがりしてもサルはサルだ。自己満足の子育ては不毛だろ?人間の子供はペットじゃないよ。

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遅刻に対する罪の意識?

 時間にルーズである。「5分前行動」「チャイム着席」と、教員も声をからすが、まるっきりどうにもならない学校も結構あるのではないか。(現任校もそう)
全然罪の意識もなく平気の平左で遅刻してくるバカ奴らの顔を見ながら時々思い出すのが、ずっと以前に父親から聞いた話だ。

 俺の父が中学(戦時中だから旧制中学だが)に通っていたときのこと、ある日市電が故障して止まってしまい、遅刻したというのだ。今だって飛び込み自殺やパンタグラフに何か引っかかった、といっちゃあ長時間止まることもあるというのに、まして当時のことだから個々の電車が動かなくなることもあるし、停電も多かったのではないか。
 で、遅刻して、先生のところに行き、
「市電が故障して止まってしまいました。」
と報告すると、あろう事か、先生に
「何で最初から故障しない電車に乗らんのだ!」
と怒鳴られた、という。父親は、
「まあ、その頃の中学生だから口答えもせず、申し訳ありません、って畏まって答えたけどね。」
と笑っていたが、俺のほうも笑って、
「そんな無茶苦茶な」
というような他愛のない会話をその時はしたと思う。故障する電車と故障しない電車をどうやって見分けろっちゅうの!?
 だが、この先生の一見無茶苦茶な論理は、実は現代でも現実に生きているはずだ。どんな理由があっても遅刻してはいけない場面というのは絶対に存在する。学校というのは実社会での行動規範の一翼を担うべき訓練をする場所でもある、という考え方からすれば毎日の登校時間は「絶対に遅刻してはいけない」場面かもしれない。

 俺は教員になってから何度か、この話を生徒にしたが、笑い話と勘違いされて一度もまともに受け取ってもらえなかったな。残念なことである。この、子供にたいしてあまりにもヌルい社会にあっては、それも当然とも言えるが、こういう、時間に対する厳しい感覚というのは、どこかで教えなければいけないことの一つであろう。
 誰か、上述の話を笑い話でなく、生徒の心に届くように語れる先生はいませんかね。もしいれば、その人は、本当にすごい先生かもしれない。

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イエスマンの作り方

 家内は在宅でピアノを教えている。まわりからは片手間仕事ぐらいに思われることが多く(そういう教師が多いから偏見も多いのだ:実際、何年もピアノを習っている、というふれこみの生徒で合唱祭の伴奏なんかをやらせてみてもその音楽性やテクニックに絶望することがしばしばあって、いったい何を教えてるんだ、と慨嘆したくなることも多い)、PTAの役員決めの時なんかには何かと風あたりが強くて困っていたが、まともにやろうと思えば、これはまさに「職業」なのである。

さて、家内は
「S…幼稚園の子供はどうしようもない、新しく来た子で、ウチの子はS…幼稚園、と親が誇らしげに言うのを聞くとため息が出る。」
と常々ぼやいている。その幼稚園はウチの近隣じゃ名の知れた「名門」で、しっかりした教育理念のもとに子供たちをしつけていて、園児は「いい子」ばっかり、親たちの評判もよく、入園するのも競争率が高くてけっこう大変だ、ということなのだが?
「S…幼稚園の子供たちは、自分で何かを考えようとしない。いつでも大人の顔色を見ることばっかり上手。自由な発想で自分の思ったような音を探そうとか、歌ってみようとかはせず、とにかく教師がヨシと言うかダメと言うか、ということにしか頭がいってない。曲を弾き終わった後に私の顔をのぞき込むようにして評価を気にするの、やめて欲しい!!」
「中には、ボク上手?なんて聞く子までいる(そういうのはこんこんと説諭しちゃう)。」
「あなたはどうしたいの?とか聞くとどうしていいかわからなくなって思考が停止しちゃう。」
そんな、小さい子供に要求することじゃない、と思うか?とんでもない。正常な脳みそを持った子供なら当然誰でもやってることじゃないか。
どういうやり方をしているのかは知らないが、要するにその幼稚園では、先生が「やりましょう」と言ったこと以外は、すなわち「やってはいけないこと」として園児たちにすり込まれるのであろう。これは教育理念としてそういう子供を育てようとしているのかも知れないし、ただ単に技術的な問題として(つまり指導者が子供に日々どう当たるか)あらわれていることなのかも知れないが、結果は同じことである。

一方、これも家内の話だが、それまで自由闊達に、楽しげにピアノを弾いていた子が、(たいてい小学校の4~5年生のあたりで)ある日を境に急に退屈なピアノを弾き始める。そういう現象が起こったときに、生活の変化について質問すると、決まって「塾に行き始めました」という返事が返って来るという。それが何度も繰り返されたこともあって、今や家内は、ピアノの弟子から
「アタシいついつから塾に通うことになったの…」
という話を聞くと内心ため息をつきたくなるという。
塾に関しては、たとえば「(これはある私立校の先生:元やり手の塾講師からの又聞きだが)取りあえず偏差値を高めるために、答えを導き出す方法のみに特化して余計なことを省き、というかさせずに、能率一辺倒に進めていく」ような学習をすることによって、かえって「考える力」や「感じる心」を抑制する方向に進んじゃう、という現象が起こるのかも知れない。ま、憶測の域を出ないけどね。しかし、「塾に通う」というただそれだけのことが一人の人間の情操を奪う(というのはいいすぎかもしれないが、ある種の阻害をする、とはいえるかも)というのは空恐ろしいことだ。もちろん、全てがそうではない、とは思うが、少なくともウチの近辺ではそういう塾が多いのかも知れない。
今や子供の生活と塾とは切っても切り離せない関係にあるんだから、塾を選ぶというのも、周りの評判や進学実績だけを判断基準のすべてにはしない方がよさそうではある。(幼稚園もまた同様。)

そしてここからが肝心なところなのだが、俺自身の現在の行動パターンに、自分の幼児体験とか小学校時代、特に3~4年生ぐらいまでの経験なんかが色濃く反映されているんじゃないか、と思い当たる出来事がこれまで数多くあったように思う。それも「行動が抑制される」という方向に。ま、俺はニブい人間だから、けっこう後になって
「あのときああできなかったのは、いついつの誰それのあの一言のせいで…」
なんて思い悩んでいたりするわけだ。そんなウジウジしてる野郎なんてそうそういやしない、といわれればそうなのかも知れないが、もしそれがけっこう普遍的なパターンだったりすれば、あまりのんきな話ではなくなってしまうであろう。つまり、
「イエスマンはこうして生産されてゆく」ということかな。あまりにもいろいろな方面から、たくさんの「心理的抑制」が後天的にすり込まれていってしまっては、もはや「躾」というプラスの面を超越して、つまらない人間がいっぱいできてしまうんじゃないか、と思うと、なんだか暗澹たる気分になってしまうのだが?

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