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ウクライナ チャイコフスキー カルパス

2022.04.10(17:40) 367

 世界中の人が驚愕している。21世紀のこの現代に、これほど露骨な侵略戦争を開始してしまう政府があるとは。しかもこれほど露骨にしかも積極的に民間人を巻き込んだ残虐行為の果てに多大な犠牲を出し、それもこれほど露骨にしらを切ってほかに責任を擦り付けようとする国があるとは。様々な報道から見えてくる状況とか、惨状について詳しく言うのはこっちのすることとは思わないが、自分の中で驚いたことがある。

何と、私はここ一月の間にチャイコフスキーが嫌いになってしまったのである。3月に入って、何かのネット記事だかなんかで、クラシックなどのコンサートで予定されていたチャイコフスキー作曲の「大序曲1812年」という曲が、予定されていたプログラムから外されている、というのを読んだ。この曲はナポレオン軍がロシアに進撃してきてロシアの危機となったが、頑張って勝利を収めて、おめでと~う!というのを描写して最後は教会の鐘は鳴るは大砲はぶっ放すは、という大騒ぎのもとに終わるド派手な曲である。今現在ロシアがこんな理不尽なことをやって全世界から非難を浴びているときに、ロシアの勝利を祝うような音曲はいかがなものか、ということであろう。私は音楽大学で作曲専攻であったから、「音楽」というものが何か音楽以外のもの(例えば景色とか物語とか思想なんか)を表すことはできない、という根本原則は重々承知である。誰かのyoutube動画でも、そこら辺のところを説明しているのがあって、その意見にも全面的に賛成である。そして、このような(1812年という曲を排斥するような)動きは間違っている、という意見をすることもできる。

しかし、である。私はチャイコフスキーが嫌いになってしまったのだ。
「1812年、やらないことにしたんだって?いいじゃん、やる必要なんかないよ、そんな曲。ロシアの作曲家でしょ?いらんいらん。」
って感じですかね。ついでにハチャトリアンとか、ショスタコービッチなんかも疎ましい。ストラビンスキーはそれほどでもないか。ソ連から亡命したからね。
 考えてみると、こういう音楽の好き嫌いとか、偏向というか、そういうのはあくまでも人それぞれの好き嫌いによるものでしかないのか、と思った。小学校の頃からソビエト連邦は悪い国、と教えられてきた。大人はそういう言葉はズバリ言わないけどね、シベリア抑留や北方領土の話が繰り返されればそりゃそうなる。そして、西暦2022年の今になっても、この体質は全く変わっていなかった、というのを如実に見せつけられれば、
「やっぱりあいつらって、、、」
となってしまうのも当然かもしれない。その流れで、「ロシア的なもの」も、なんか今までそれが好きだった、という自分に対する多少の後悔、というか自己嫌悪というか、そういったことを感じているのかも。
「なんで俺はこんなもの好きだと思っていたのだろうか?」というような。
ということで、自分でも思ってもみなかったことなのだが、なんだかロシア音楽全般が、なんか好きじゃなくなってしまった。残念なことである。

ちなみに、カルパスとサラミは製造方法や味がほとんど同じなのだが、サラミはイタリア発祥で牛肉と豚肉を使用するが、カルパスはさらに鶏肉を使うことでより安価に製造できるらしい。で、カルパスはロシア発祥だそうだ。だから、カルパスも何となく好きじゃなくなった。今ウチにあるカルパスはさっさと食っちまって目の前から消してしまおう。


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凡百の徒然草のうちの一つ


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退職したよ

2022.03.31(22:52) 366

退職した。65歳になったからね。再任用の最初の年から、
「ここはもはや俺のいる場所じゃないなぁ」
という思いを拭い去ることができず、年々それが大きくなってくるばかりであった。(ここは若い人のいる場所だ。年寄りの居場所ではない)それもやっと今日で終わる。校長は、年度の最初から、
「先生、今年度末で教員免許の期限が切れますがどうしますか?(本当にこれで引退するのですか?)」
と再三聞いてきていた。確かに住宅ローン終わってないし、引退後にどうなるのかを考えると不安はあるのだが、それも含めてけじめをつけなければ、という思いもある。聴くところによると、70歳になっても何らかの形で教師を続けている方もいらっしゃるらしい。それはそれですごいことなのだが、そういうのはむしろ余裕のある人のやることなのではないだろうか。

結局、3月初めぐらいから、もう使わないであろうファイルとか資料とかを処分し、私物を家に持ち帰るなどの身辺整理を始めていた。最後は31日に職員室の机の中のものを箱に放り込んでおしまい、というところまでしといたのだが。

今年度は3年生の進路担当である。最後の仕事として、卒業生全員の進路先を県教委に報告するというのがあるのだが、その報告用フォームを県教委がなかなか送ってきやがらないのだ。結局、やっとのことで今日の朝になって電子メールできたのだが、その後すぐに市教委のサーバーが新年度に向けてのメンテナンスに入ってしまい、教員用のPCでは開かなくなってしまった。仕方がない。報告書の提出は4月以降に残る人の仕事ということにして、そのための基礎資料をまとめておかなければ。
 ということで、一番確実な「指導要録」を引っ張り出して、最終チェックをする。その作業中にも、転出する人、退職する人が一人また一人と職員室を辞していくたびに、セレモニー的に職員玄関まで出て行って挨拶などに立ったりするから、時間が細切れになって集中できない。数の勘定を伴う作業だからこれは大いに困る。さらに、明日から新しく赴任する音楽の先生に来てもらって、備品の状況とかオーディオの使い方なんかを一通り説明したりとか。他の先生方は世話話なんかをしながら机の片づけやら古い資料のシュレッダーなんかをして、ある意味戦闘モードからは解除されているからどうということはないが、こっちはそうではない。
何で、定年退職してその後5年の再任用もして、よりによってその最終日に俺だけ本気モードの仕事せにゃならんの?まあいいですけど、それも話のネタだし。
結局、昼飯も食いそびれて15時すぎ、資料まとめて、片づけて、自分の机やロッカーも片付けて、鍵だのなんだの整理して、教頭に返却して、やっとのことで、無事に?足掛け37年の勤めを終えて帰って来たのであった。

明日からはただのオヤジである。

凡百の徒然草のうちの一つ


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安易なお願い

2022.01.25(23:52) 365

3年生の入試の事務は今が山場だ。こんな忙しい時だというのに、なんなんだ!

3年生を担当するのは8年ぶりである。8年前になかったことは、まあいろいろだが、ここまでで一番腹が立ったのが、
「県立高校の入学願書に貼り付ける「収入証紙」を中学校で一括して市役所の窓口に買いに来ることになっている」
というもの。以前はそれぞれの家で個人的に市役所に行って購入したものである。その代金、ウチの県では¥2,200。上記の要求は、文章にすれば簡単である。そのわけは、市役所の窓口が込み合って困るから、ということである。まあ、なるほどね。仕方ないよね。中学校でまとめてもらおう。ってことだな。

ま、当たり前ですよね。

しかし、こっちにしてみれば、
ふざけんじゃねぇよばかやろう
ということなんだけど、それ、わかるかなあ。想像力がないのかな?考えてみなよ。それを実現するためには、まず、「集金しますよ。」というお便りを起案して管理職に朱を入れてもらい、印刷して生徒に配り、集金袋の準備をする。それを担任が配り、指定の期日中に回収する。それを会計の担当者が受け取って提出する必要のある人(県立高校を受ける人)の名簿と照合し、お金の過不足がないかを確認し、持ってくるのを忘れたやつには催促をする。集まった金を集金袋から一件ずつ引っ張り出して金種別に分けて指定の期日に市役所に持って行って必要な収入証紙を受領してくる。さらに、事前に準備する必要があるから市の教育委員会におおよそ必要な収入証紙の枚数の報告を(くそ面倒くさい市のシステムによって)メールで報告し、受領する当日の朝に必要な証紙の正確な枚数を電話で一報を入れてから市役所に出発する。
ざっとこれだけのことを中学校でやらなきゃいけなくなるわけです。わかりましたか、想像力のない皆さん!

何年前からこういうシステムになってるんだか知らんが、金勘定は教師の仕事なのかを考えてやっていることか。このために、いったい何時間俺たちが時間を奪われているかわかっているのか。それでなくとも教師ってブラックな仕事だって話題になっているのに、俺たちがニコニコとお人好しで何にも言わないからって付け込んで、何の良心の呵責も感じることなく自分たちは楽しやがって、調子に乗るのもいい加減にしろってんだよこの野郎!
はああ、思い出したらどんどん腹が立ってきた。実際100人からのお金(全日制は一人2200円、定時を受ける子は950円)は二十万越えですよ、それがすべて千円札と百円玉でかき集めたものを勘定するわけですよ。専門家じゃないですからね。何時間もかかっちゃうわけです。それを金勘定の専門家でもない人間が、本来の業務の時間を削ってやってるわけです。こんなの放っておいちゃダメですよね。皆さん、声をあげていこうじゃありませんか。

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昭和の日。ジェネレーションギャップ。

2021.05.03(00:38) 364

GWが始まる直前のこと。若い担任の人たちと雑談をしていたら、
「昭和の日って、なんで昭和の日なんですかね?」
「そうそう、以前は”みどりの日”って言ってたのに。」
俺(副担任)と主任がびっくりして、
「え、知らないの?本当に?」
「昭和天皇の誕生日だよ、もともと。」
若い担任。
「そうか、それじゃ、11月23日って誰の誕生日なんですか?」

なるほど、今年は「平成33年」だ。彼らにしてみれば、4月29日が「天皇誕生日」であった記憶はないのか。そりゃそうだよね。
何か、さびしさを感じさせる一コマでした。



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剽窃

2021.04.24(10:17) 363

「54文字の小説」というのが最近話題になることがある。よく知らないので、なんで54文字なのか、とか由来はわからないのだが、当然、国語の授業で表現の一環として生徒に取り組ませる先生もいる。たった54文字でストーリーを語るとか、面白い取り組みだ。いいことである。

さて、先日、ある学年の生徒全員(未提出者もいるけど)の54文字の作品が廊下に張り出されて、ほかの教科の先生も評価をすることになった。で、俺も「Crabface賞」のシールをもって廊下に出て行ったわけだ。まあ、たくさんある中で(130篇はあるか)印象に残った3篇にシールを貼っておいたが、その日の放課後に、一人の女子生徒が来て、
「先生、すいません。実はあの私の作品はネットのヤツをそのまま書いて出したんです。」
という。なんじゃい、盗作かい。せっかく一生懸命読んだのにガッカリさせてくれるじゃないか。

結局、その子がそんな作品を書けるとはちょっと考えにくい、と感じた国語の教師がネット検索したら、一発で当該作品がそっくりそのまま出てきたので、本人を問い詰め、俺のところに謝りに行かせた、ということでした。まあ、出来心、というか切羽詰まってそういうことをする輩は大人にもいるから、一つのエピソードということにしといてもいいんだが、感じたことが二つある。
今の時代に剽窃をするのはけっこう難しい、ということだ。なにしろ、ネットに上がってるからね。あまり誰も見ないようなページから拝借したものでも、検索をかければたちまち追跡されてしまう。特に、切羽詰まった人間がやらかしたのでは、最初に現れたページ(つまり検索上位のページね)の作品を持ってきちゃいそうだから、よけい簡単に発見されてバレてしまうであろう。やはりクリエイティブな仕事は自分の脳みそからひねり出すしか方法がない。ある意味、本当の個性が試されれる時代が来たのかな。と。
②たったの30~40分ぐらいで学年全員の「54文字の小説」を全部読んで、その作品が「イイ!」と思えたこの俺様の審美眼って、けっこう確かなものである。ということで。

要するにうれしさと失望がないまぜになった出来事でした。

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人間の団子

2021.01.13(00:46) 362


 ソーシャルディスタンスの指導、皆さんどうしてますか。人と人との距離はできれば2メートル、無理でもせめて1メートル、でしたっけ。もう、何を言ってるんだろうか。学校でそんなの無理じゃん、最初っから。
 そして、休み時間ともなれば、あっちこっちで顔を寄せ合い、体を寄せ合い、互いに手足を絡ませ合い、大声で騒ぎまくる光景がうちの中学校では常態化している。要するに、武漢肺炎が問題になる以前、去年の2月時点での光景がそのまま今も眼前に展開しているのであります。いくら
「密集するな。ソーシャルディスタンス!」
などと注意したところで、せいぜいよくてニヤニヤしながらその時だけちょっと互いに距離を取るだけ、大抵は「ガン無視」である。だからと言って、まさか昔のように襟首をつかんで引っぺがすような暴力的な真似はしませんからね。

 しかし、翻って我々教職員の様子はどうなのか。ま、マスクは誰もがつけるようになったけどね。それ以外に関しては何も変わっていない。大体、職員室の机の配置だってこれまでのまんま何も変わっていないし(密だし)、生徒を呼んで話をするときの距離だって、特に変わっているわけではない。生徒を前にして例えば文章の添削をするにも、生徒指導上の注意を促すにも、何しろ生徒のすぐそばまで行かなければ始まらない。授業だって、大きな声で実施するというところは長年の経験でそれほど変えるわけにはいかない。声の大きさに常に注意を払っているわけじゃないからね。本当の本当に、何も変わっていないんだよ。

 それなのに、生徒に対してだけ、3密とか注意したところで、言うことなんか聞くわけないんじゃないでしょうか。生徒だって阿呆じゃない。文句を言ってこないからといって何も思ってないわけじゃなく、言うのが面倒くさいだけだ。冷ややかな目で教師のことを見ているのだ。


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合唱の命運は尽きるのか

2021.01.06(18:35) 361

12月10日に文科省は「合唱等を行う場面での新型コロナウィルス感染症対策の徹底について」という通知を出した。要は学校で合唱やっててクラスターが何件か出てるから気をつけろ、ということだ。実は近隣の市町村で合唱祭の練習が原因で武漢肺炎の集団感染が発生してしまったうえ、すぐそばの私立高校でも時期を同じうして部活でクラスターが発生している。それらを受けての通知なのかもしれないが、この通知はよく読むと、俺たち「音楽の先生」にとっては重大な内容である。

まず、
「マスクは、(中略)原則、着用することとします。」
とあり、さらに、
「ここでいうマスクは、(中略)鼻と口の両方を隙間がないように覆った(中略)形状のものをよぶ。」
と規定している。心ある人なら気づいてもらえるかもしれないが、これはもはや、
「授業では合唱をやるな」
と言っているのとほとんど同義である。
理由①:合唱に限らず、歌や吹奏楽器の場合、思いっきり大量に、一気に空気を肺に送り込まねばならない
「息を吸え」
というのは音楽表現では欠かせない指導だが、これは、(上記の)マスクをしていてはまず不可能である。「息苦しいマスクの方が効果的なマスクです」なんて乱暴な言い方をする人もいるぐらいだから、そもそも頑張って吸っても空気が入ってこない。無理をすれば鼻や口にマスクが張り付いてしまうから肝心な時に出遅れたりしてしまう。
理由②:合唱で言葉をはっきりと浮き立たせるには口を大きく開けたり閉じたりしなければならない。現代の子供たち(大人も)は口をきちんと開けて大きな声で(必要な声量で)はきはきと話す、という当たり前のことができず、何を言ってるのか聴き取りにくい生徒が思いのほか多いのだが、歌の場合はその欠点が拡大されて露呈してしまう。大勢で一斉に歌う合唱の場合はそれがさらに積み重なってピントのぼけた写真のようになって、歌詞がさっぱり聴き取れなくなり、最悪の場合日本語を言ってるのかどうかすらわからなくなる。
「口を大きく開けろ!」
というのは歌唱表現では欠かせない指導だが、マスクをつけてこれをやると(実際やってみればすぐわかるが)、マスクはすぐにあごの方にずり下がってしまう。
理由③:声がくぐもって正しい発声での音色が本人にも指導者にもわかりにくい。さらに、正しく歌えてるかどうかなど、評価のしようがない。

 それでも無理に歌わせ続けると、中途半端に歌う癖がついてしまい、ワクチンが出回るなどして以前と同様な指導ができるようになったその時に、その癖をを修正するのはほぼ不可能、というのは経験的に(俺なんかはイヤというほど)わかっている。癖がついて何が悪い、という向きもあるだろうが、たかが合唱されど合唱である。合唱祭などで、クラス対抗なんてことになるとやはり、正しい発声を身に着けてる生徒がクラスに多い方が圧倒的に有利なのは確かだし。
 
 さらに、この文書には続きがある。合唱以外の活動として、特に感染リスクの高い活動は「一時的に控えろ」とあり、その中に「リコーダーや鍵盤ハーモニカ等の管楽器演奏」が挙げられている。公表されている様々な実験結果によれば合唱より圧倒的にリスクの低い「管楽器演奏」があっさりやらないでくれリストに入っているのに、なぜ合唱だけは聖域になるのか。
いっそ、「学校の音楽では合唱はやめてください」とはっきり言ったらいいじゃないか。実際、本音ではやってほしくないんだろうが?

本当に煮え切らないことだ。雲の上の人たちに度胸や見識が備わってないんだな。


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