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政治的なことを生徒に話す

2023.06.03(16:29) 375

ロシアによる、ウクライナ侵攻は未だに終わる気配もなく、日本では物価が上がる要因になったり、中国の台湾侵攻も現実味を帯びてきたり、憲法改正論議が盛んになったりと、世界の今後に漂う暗雲は濃くなる一方である。

ところで、学校ではこのような世界情勢について、教師は生徒にどのようなことを語っているのだろうか。

二十数年前、北朝鮮が大陸間弾道ミサイルを発射し、それが日本本土を飛び越えて太平洋に着弾する、という事件が起き、日本中大騒ぎになった。その時、自分の所属する学年の主任(定年間際)は大いに怒り、
「こんなことを許してはいけないのだ!」
と、たまたまその日にあった学年集会の時に語っていたのを思い出す。その時に俺が疑問に思ったのは、(なんで、この先生、こんなに怒っているんだろうか)ということであった。その後、この先生の怒りや不安の理由は時代とともに明確に現実のものとなったのだが…。
そもそも大まかに言えば、政治的に偏向した内容の指導を、我々公立学校教師はやっちゃいけないことにはなっている。例えば選挙の時に特定の政党や候補者を支援して保護者の投票行動に介入するような発言はクロであろう。しかし、国際情勢について、教師という前に一人の大人としていかなる意見を持っているか、ということについては、
「俺はこう思ってるんだが、皆の衆はどうおもう?」
という形であれば大いにありなんじゃないだろうか。というか、なんかの時にそんなことに知見も持たず、手際よく語れないようじゃ、「教師という知性」として生徒の失望を招かないか、という気がする。俺の子供の時の記憶でも、5年生の時の担任が、アメリカがいつまでたっても沖縄を日本に返還しないことについて、
「沖縄には     があるからダメなんだよな…。返せないんだよな。」
  (何があるかは口に出して言わない。言わないところに俺たち鼻たれ小僧どもはある種の満足感を感じたものである。)
と帰りの会だか給食だかの時に言っていて、それは長く俺の印象に残っていた。ほかの仲間たちも大人の話を聞いたという手ごたえを感じていたように思う。折に触れて、こういう社会についての知見を子供たちに言って聞かせるのは実は大切な教育活動なのではないか。

で、ウクライナである。
俺は、この自分としての最後の授業の日々、ウクライナについて授業のマクラとして選び、短い時間ではあるがけっこう話した。自分の義務だと思って。

もし君たちがキーウの中学生だったとしたら。
君たちを守るべきお父さんやお兄さんが職場を離れ銃を持ち前線へ行ってしまう。後に残るのはお母さんや年寄り、小さい弟や妹ばかりだ。家を守る役目の一端を担うのは君だ。そんな中、君の住んでいる家が、君の部屋が今日の午後にもミサイルで木っ端みじんに吹き飛び、学用品も大事にしていたぬいぐるみやゲーム機もベッドも何もかもがれきの下敷きにぺしゃんこになる。あるいは兵士が土足で踏み込んで洗いざらいかっぱらっていく。抵抗すれば躊躇ない発砲によって君は絶命する。あるいは連行されてひどい目にあわされる。(それ以上生々しくは言わなかったけどね)そんなことが今の今この瞬間に、現実に起こっている。そして、(ここからが大事)これを放置しておくと、侵略者は他国の領土を奪い取って自国の領土ということにしてしまう。それどころか、同じような野望を持つ国がそれを見本にして別のところで同じような侵略を開始する。それはズバリ台湾である。だから、この戦争は日本の平和にも直結している。日本を含め、世界の国々は協力し、ロシアを勝たせることだけは絶対に阻止しなければいけない。

俺は、教育者の基本的なスキルとして、義務として、平和教育の極めて重要な題材として、学校の在り方として、最低限上記のことぐらいは生徒に伝えるべきだと思う。戦争は華々しかったり恰好よかったりすることじゃない。絶対にやっちゃいけない戦争が、しかし現実には勃発する。その時にはきれいごとでは済まされない。きれいごとじゃない戦争の、日々新たに起こっている残酷な現実を、子供たちに知らしめなければならない。それは「政治的な言動」ではなく、真実の平和教育だ。伝えることを恐れてはいけない。

でも、実際には音楽の授業でしか生徒の前に出る機会なかったし、コロナであちこちの学年や学級が閉鎖になって授業つぶれるし、ですべてのクラスで語ることはできなかった。残念である。どこかの誰か後進がこんな俺の思いの一旦なりとも具現化してくれていると嬉しいんだけどなぁ。

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凡百の徒然草のうちの一つ


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親は子供の召使い~鍛えられない子供たち

2023.05.21(10:07) 374

①先日、街を自動車で走っていて目についたこと。
 信号待ちをしている母親と小学校中学年ぐらいの女の子。女の子は手ぶらで気楽な様子。母親は自分の荷物のほかにバイオリンのケースを肩に担ぎ、楽譜を入れてあると思しきレッスンバックを手に提げている。女の子はこれからバイオリンのレッスンのため先生のお宅(教室)に向かう途中であろう。実にむかつく光景である。自分の荷物を自分で持たない。持たせない。重くてかわいそうだから?それとも自分の子に
「自分の荷物ぐらい自分で持ちなさい」
ぐらいのことが言えないの?バイオリンは親の見栄で習っていただいているのか?確かに、我が子にバイオリンを習わせることは、親にとっては一筋縄じゃない難行苦行というのはよ~っく知っているが、レッスンの送り迎えの際にお子様のお荷物をお持ちするというのもその苦労のうちに含まれるとは納得できんわ!それとも、
「タクの子にはそういう煩わしいことで指先を荒らすなんてさせないんザマスの。」
みたいなヤツ?でも、そうだとしたらその子は大成はしないだろうね。偉大な音楽家というのはたいていの場合、人としてのまともな生活力を持っているものだからね。

②時代が変わったから?
 俺は昨年で退職したが、その最後の数年、通勤途上でよく見かける光景に、母親が小学一年生(低学年)のこどもを玄関先どころか前の道路まで、場合によっては家の前の狭い道からちょっと広い道まで出て「お見送りする」というのがあった。大人だって朝はクソ忙しいだろうに、お子様が小学校にご出発するのをわざわざ見届けるというのは昭和の小学生だった身としてみれば目新しい。母親にしてみれば、いろんな家事仕事の手を止めてまで我が子の出立を見送るのが子供に対する礼儀だと思っているのか、みんなやってるからそういうもんだと思って特に何も考えていないのか。それともママ友連中から、
「ネグレクトじゃねえの」
なんて後ろ指をさされたくないのかな。自分がその小学生の立場で考えてみれば、過保護を通り越して気持ち悪い。百歩譲って低学年のうちはなんとも思わないだろうが、そのうちウザくてキショいと思われるのではないか。それともそういう環境で育っていけば母親にベタベタへばりつかれるのを特に不快に思わなくなるものなんだろうか。キモチ悪いし、将来が不安だ。



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「自分のことは自分でする」ということ~3歳園児が園バスに置き去り死亡事件

2022.09.08(10:34) 373

 誤解のないように最初に断っておくが、この一文はもちろん、置き去りになって亡くなった園児が悪いと言っているのでは全然なくて、ましてやバスを運転していた保育園の園長を擁護つもりも全然ない。

 3歳の女の子が園の送迎バスの中に置き去りになり死亡したというショッキングな事件がここ数日話題になっている。本当に残念でやるせない話だ。送迎バスが目的地の保育園に到着して、園児が全員降りたかどうかを確認するなんて当たり前以前のことだし、出席確認で全員の顔と名前を照合するのも、今時中学校だって絶対に欠かせない朝のルーティンだ。そこの保育園と来た日は、いったい何をやっているのか。しかも、去年も同じ事件が別のところで起きているというではないか。そういうのを「他山の石」とするのが常識なんだけどね。

で、俺なりに(家内の意見も含めて)よくよく検証してみると、こういう話の遠因に、
「自分のことは自分でする」というあったりまえのしつけを現代の親や大人がしない、という現象があるように思える。裏返して言えば、なんでも周りの大人がやってあげてしまうのである。例えば、1~2歳ぐらいの子供が「服を着る」とか「靴を履く」みたいな日常のしぐさは、子供がやりたがるなら自分でさせればいいのだが、ボタンをはめるとか外すみたいな作業は大人がやってしまえばその方が手間がかからないし早いに決まっている。だが、そのちょっとの時間を待てずに手を出してしまう大人が多すぎる、というより何の疑問もなく一般的になってしまっている。それどころか、
「ホニャララちゃんのために一生懸命こんなことも、あんなこともやってあげたアタシって偉い!」
ぐらいの気分でいるバカ母親が圧倒的に多く、普通のしつけをしている普通の人(いずれ「子育ての勝者」となる人)の方がママ友仲間から
「ナニあの人、子供が可愛くないのかしら」
みたいな白い目で見られて肩身の狭い思いをしてしまう。子供たちが年相応に自分でやらなければいけないことを大人が自分でも気づかないうちに先に手を出してやってしまうことで子供たちの様々な生活のスキルが低下している。その延長線上に、
「バスから降りなさい」
と一人一人にいちいち言わないと降りない子がいる、とか、わざと隠れてそういう声をかけてくれるのを待っているイチビリな子とか、最近の乳幼児は親のいい加減な生活に合わせて夜更かしをしているから(何時に寝る、みたいな躾が徹底されていない)、バスの中で眠っちゃって降りるときに置き去りになるとか、そういう場面が発生する可能性は明らかに高まっていると思う。大事に至らないだけで、園児バスに置き去りにされる(されそうになる)子供って実際にはちょいちょいいるのではないか。第一、バスから降りるときには問答無用で降りなければいけない、という発想が本人にない(大人から教えられてない)というのはそういう風潮の延長線上にあるといえる。「やることはやる」「ダメなことはダメ」という線引きがあいまいなところに今の子供たちは生きているのであろう。

 一方、バスを運転した園長が70代っていうのも、不幸である。この世代は子供のころはまだ日本も貧乏で、自分のことは自分でやれ、と物心ついた時から徹底的に躾けられ、自分の子供を育てるときも、罵倒とゲンコツで躾けをしても当たり前の時代だった。そういう70代にしてみれば、バスが到着したら乗ってる人はみんな降りるということが、「水は高いところから低いところに流れる」のと同じぐらいにしみついているのが容易に想像できる。彼はバスのドアをロックした時に、「バスの中には誰もいない」とさえ思わなかったはずだ。だってあたりまえなんだもの。

 結局、70代の人間の常識が現代の子供たち(周りの大人も含めて)のあり様にマッチしていない、という現象がこのような重大な事件を発生させたのかなぁ。だって、いつもの運転手さんはちゃんと確認してたというではないですか。それとももっと深刻なボケが入っているとかかな。だって運転なんて、すればいいってもんじゃないでしょ?日頃自分が運転している自家用車じゃないんだから、子供を降ろしたら、ゴミとか忘れものとか、黙って阻喪してるとか、一応車内をチェックして当たり前じゃないですか。なんか、愛を感じないよね、自分の仕事に対して。

 もう一つ気になるのは、「重大事故一件の後ろに軽微な事故が30件あり、事故になりかけてならなかった場面が300件ある」(正しい数字は忘れたけど大体そんな感じ)という統計があるというが、今回の件に当てはめれば、園バスに閉じ込められても死ななかった子が30人おり、閉じ込められそうになって「待って~」みたいにして降りた子が300人いたということになる。そうなると、幼稚園保育園に送迎バスで通わせているすべての子供にとって、我が身に降りかかる可能性があると考えた方がいいということになってしまうけど大丈夫なのか。
「自分の身は自分で守る」ということを、少し緊張感をもって我が子に教える、躾する必要があるかもしれませんね。

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安部元総理事件への違和感

2022.07.09(00:34) 372

安部元総理が殺害された。日本における戦後最も偉大な政治家の死には驚きと悲しみ、残念な思いを禁じ得ない。俺よりたったの2歳年上、まだまだ若いのに。

しかし、この事件を受けての、例えば各党党首などの政治家の、報道される言葉には強い違和感を覚える。特に、
「民主主義への挑戦に負けてはいけない」
「暴力による言論封殺は許されない」
「最大限の強い言葉で批難する」
「テロには屈しない」
というのはいったい何なのか。皆さん口をそろえてそういうことを言っているが、いったい誰に向けての言葉なのか、さっぱりわからない。結局今回も政治的な背景のあるテロなんてことではなく、ただのクソくっだらない頭の足りない小人物が勝手に起こした事件でしかない。そいつはどうせ民主主義に挑戦する気もなければ、言論封殺なんて考えてもいないのだ。そんな言葉を投げつけられたところでそいつにとっては
「何のことですか?」
ぐらいのものであろう。カエルの面にションベンもいいところだ。なんだかピントがずれてるとしか思えないんだけどなあ。それとも「犯人じゃない」人たちみんなに
「こういうことはやってはいけませんよ」
って言っているつもりなのかな。そして出ました、伝家の宝刀の言葉、
「あってはならないこと」
あってはならないと言っても実際起きていることだからなー。それを言うなら「許してはいけないこと」?「発生させてはいけないこと」かな。
聞けば、銃を手作りするのも分かっている人にとってはたやすいことらしいし、武器を持ったままこれほどのVIPの至近距離まで近づくことができたこととか、悔いが残る問題が多くあるような気がしてならない。安部元総理に限らず、人は死んでしまっては取り返しがつかないんだから、そもそもこんな事件が起きるようにしておいてはいけないのだ。
あらためて、「あってはならないこと」という言葉は物事の本質を覆い隠す効果があるなあ、と感じたことである。

そしてもう一つ、どうにも腹立たしいのが、このように日本だけでなく世界中を震撼させるほどの大事件が、ただのクッソくだらない、自分と同じ人類と思いたくもない最低な奴によって引き起こされるということである。(ジョンレノンの時もそうだった。)
そして、この項の表題にもある「違和感」が何か、と考えたときに、つまりそいつらは民主主義とか言論封殺とかテロとか、そういう言葉からは隔絶された精神世界に住んでいるということだ。だから、党首だとか閣僚だとか、政治家・言論人の言葉なんてピントがずれるに決まっているのである。もっと別の対応が用意されなければいけないのだ。
⇒安部元総理事件への違和感の続きを読む

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高校生の政治活動

2022.07.08(09:20) 371

どこかの高校で、ある生徒が選挙についてのポスターを自作して貼ったところ、教師から
「剥がせ」
と指示され、納得できない、と言ってSNSで発信し?今朝のTV番組で取り上げられていた。何やら、その後教育委員会で検討して、件のポスターは問題ない、ということになったとのことなのだが、まず、その生徒の言い分はまさに納得である。単なる国民としての政治参加についての啓発ポスターに過ぎないし、何しろ選挙権を持っていて今度の参議院選挙に投票できる高校3年生は現実にいるわけだからね。
 で、そのポスターを剥がさせた先生の気持ちとしては、要するに脊髄反射的に
「なんだこりゃ!はがせ!」
ということになったのであろう。わかります。俺も、同僚の中で、こういう脊髄反射をする人をいっぱい知っているからね。長年の経験をもとに、これはこういうもの、という確固たる信念をもっていて、実際には状況が違っていた場合でも
「そういうのはこれこれでこうなっているに決まってるんだから!」
と、頭を使わずに決めつけて、頭ごなしに怒鳴りつける。(そういう場面が常に間違いとは言い切れないのは確かではあるのだが、たいていそれは緊急の場合に限るのだ。)
 しかも、だいたい国政選挙が迫ってくる時期の職員会議では校長から、
「教職員の政治的活動は禁じられています。」
というお言葉とともに文書が配られる。そうなれば、「政治的」な何かが学校内で見かけられれば、無条件でタバコなんかと同等の「悪いもの」として脳内処理される可能性は、まあ割とあるんじゃないかな。

まあ、今回話題になったポスターについては、お咎めなしになったようだが、これからの「政治的なこと」についての教育、というか、学校で高校生がどこまでやっていいものか、ということについてはちゃんと共通理解をしておいた方がいいでしょうね。
例えば、特定の政党や特定の候補者を応援している人物のお子さんが、教室内でその候補者への投票を友達に依頼する、なんてことを始めたらどうなるのか。そして、それって高等学校として介入するべきことなのか。俺としては、そんなの放っとくしかないと思う。第一、教員みたいに具体的に政治的活動が制限されているわけでもないし、休み時間や登下校時の世話話の中で、誰が何を言ったとかなんて、いちいち管理できるわけがない。そして、管理できないことを例えば「校則」なんかに定めるというのは基本的にやってはいけないのだ。指導しきれないんだからね。
だが、さらに、その子が友達に
「マックおごるからさ。」
なんてことを始めたらどうなっちゃうの?さらに、そのための軍資金を父ちゃんから小遣いの増額という形で貰っていたりしたら?!
それって非行なのかな?
なんだかすごい時代になりましたね。

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ガッコの冷房装置

2022.06.30(01:06) 370

「センセ~!クーラーいれてくれよ~!!!」
いったい何度生徒がこう言ってきたのを聞いたことだろうか。そのたびに、
「それは保護者を通して教育委員会に言ってもらえ。市議会議員だとなおいいぞ。」
と俺は答えるようにしていた。相手がなんか言ってくるなら、なんか答えなきゃいけないからね。まあ、たいていの生徒はそれで引き下がってくれた。とにかく、ガッコにクーラーを取り付けるようなことは行政の仕事である。そっちにお願いするしかないでしょ、というわけだ。そして、それぞれの市町村によっては、
「義務教育の学校にそんなもの入れたらたくましい子供が育たなくなる!」
という信念を持った(というより頭が悪いだけな)首長や教育長がいたりして、平成時代になってもなかなかクーラーの導入が進まなかったのは皆さんご承知のとおりである。
しかし、昨今の異常気象ではそんなこと言っていては、洒落でもなんでもなく先生も生徒も死んでしまう。もしもまだクーラーが導入されていない学校があるとしたら、不幸としか言いようがないが、確か最後に俺がいた自治体ではすべての公立学校にクーラーが設置されていたはずである。

だが、俺の最後の勤務校では、数日前にその頼みの綱のクーラーが故障したというのだ。何という災難であろうか。緊急連絡メール(まだメンバーから削除されてなくて、たまに流れてくる)によれば、とにかく、国社数理英にかかわらず、ありとあらゆる特別教室を使ってできるだけクーラーの利く部屋で授業をするというのだが、当然どうしても都合のつかないクラスは熱い(「暑い」ではない)教室での授業となる。先生や生徒の健康も心配だが、第一頭がボーっとするし体中汗まみれの不快な環境では学習内容も頭に入ってこないだろうに。それに、給食の時はどうしているんだろう、掃除のときは?など、退職しちゃったけどその学校に思いを馳せると心配は尽きない。俺は幸いなことに平成20年からずっと冷房のある学校で授業ができたが、それ以前の教室は実際とんでもなかった。だが、その当時(12~3年前)は暑いと言っても最高気温34℃とかだったんだよ。(それだって、ただ黙ってじっとしているだけで汗がダラダラ、服の中を流れていくし、人によっては鼻の頭とか顎の先から汗がポタポタ落ちていく。人間が生活する環境とはいいたくない。)今は37℃ですよね。なんでこんなに日本の気候は激変しちゃったんだろうか。とにかく無事を祈るばかりだ。






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プロフェッショナルとディレッタント

2022.06.08(18:20) 369

あまり言いたくないが、退職する直前の話。
ある音楽好きな先生が、もう一人の音楽好きの先生と世話話をしていて、それを聞こえるともなく聞いてしまっていたのだが(別に聞き耳を立てていたわけではない。たまたま周囲に人がやたら少なく、職員室が閑散としていたので、どうしても聞こえてきてしまったのだ。)
その中で、
「音楽の先生だからと言って、いろいろな音楽をちゃんと聴いて知っているってわけでもないですよね。」
なんて言っている。俺がその場にいるの気づいてないのかな。聴いてる相手は相槌を打ちつつうなずいているだけのようだ。で、その話をしている先生のことは、吹奏楽部の顧問として前から知っている人なので、アマオケに参加していたり実際に演奏活動をしている実力者であるのは先刻承知である。昨年の卒業式の音楽の選曲なんかすべてやって、参考までにチェックしたら、俺の全く知らない作曲家の交響曲なんかが取り入れられていたりして、
「はぁ、いろいろ知ってるのね。」
とは思っていたのだが、しかし、なるほどね、というか自分も経験があるからわかるんだけど、プロより俺の方がいろいろ知ってるぜ、っていうのを機会があればひけらかしたい人のかな。もっとも、その選曲は俺の感覚からいってあまりセンスのいいものではなかったし、実際あまり評判もよろしくなかったみたい。今回は俺が選曲担当となったので、まあオーソドックスな感覚で選んどいたけどね。

さて、専門教育においての音楽の勉強の仕方と言っても、百科事典的にいろいろな音楽を網羅して聴きまくったりして知識を詰め込む、というものではないであろう。確かに彼の言う通り、音大の学生といっても、声楽科なんかだと管弦楽の曲なんか全然知らないし、ピアノ科の学生もオペラなんか興味ない。(ましてや、日本音楽なんか興味すらない。)目の前にある自分の課題をこなすのに精いっぱいだ。いろいろ知っていると言えばやっぱり指揮科か作曲の学生であろう。俺はたまたま作曲科だったからいろいろ聴きまくるのも(さらに聴きながら楽譜と突き合わせるのも)勉強のうちだったので、いろいろ聴いている方であったが、そんなの自慢でも何でもない。普通の学生が経済学や法律なんかをやるのが音楽に変わっただけのことだ。

閑話休題。

で、元の話だが、プロフェッショナルになるための勉強法であるが、結局、普通の人より多くの作品に触れて見聞を広めるのは正直時間の無駄である。やらなければいけないのは、僅かに存在する本物中の本物を徹底的に追究することである。歴史的にも極めて優れた一曲のオペラアリアを微に入り細に入り確実に歌えるようにする。その過程で必要な技術を身に着ける。作曲であれば、ベートーベンの音楽がなぜ「名作」なのかを明らかにするためにいろいろ研究する。聞いたこともない作曲家の作品なんて、結局はベートーベンの曲に比べて価値がないから聞いたことがないのだ。歴史の陰にうずもれてしまった価値のない音楽をいくらか知っていたところで、そんなのこっちの目的(例えば作曲家になりたいとか)にとっては無価値なことである。俺の大学1年の時は「春の祭典」についての先生と学生との議論だけでオーケストレーションの講義は1年間終わってしまった印象である。(ストラヴィンスキーの「春の祭典」は現代音楽の新たな地平を切り開いた記念碑的な作品である。)
つまりは、「プロの音楽家」という山の登り方の問題として、「名作」しか足がかりがないから、そうなるのであって、有象無象の作品について知識をため込んでいるような奴(そういうのをディレッタント(好事家)というのだ、と大学3年の時の指導教官はおっしゃった)は山登りはできない、ということだな。
音楽というモノへのアプローチの仕方もさまざまである。


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